月を読む
イザナギとイザナミは地上世界に八百万のま神を生み出しました。その中でも三貴子と呼ばれるのがアマテラス、スサノオ、ツクヨミの三姉弟。アマテラスは自然を、スサノオを精神を司っています。ではツクヨミ(月夜見尊、月読命)は。

その後の物語にほとんど登場してこないこの神は、太陽神であるアマテラスと対の存在にして、苦悩を抱えて月を見上げる民の心を癒し、正しき指針と希望を与える、ローマ神話に登場する月の女神ルナと同じ役割を持つ神なのであります。ルナもまた、煌びやかなる他の神々と違って独自の物語を持たないままに、ただただ静かに空に浮かんで人々から見上げられている存在で、つまりはアマテラスが支配している漠とした自然やスサノオの目に見えない精神世界と違い、現実に目にすることができ、最もぼくらの日常に寄り添っていてくれる神なのかもしれません。

ある日の帰り道、運転中に携帯が鳴りました。数年前に庭をやらせていただき、それ以来親しくお付き合いが続いている、ちょっとスピリチュアルな世界にお住まいの奥様からでした。
いわふちさん、空を見て!すごく大きくて赤い月。すぐに普通のお月様になっちゃうから急いでね。ブチッ、ツー、ツー、ツー。

円海山の高台へ向けてハンドルを切り、車を停めて月を見上げる。確かに、やたらにデカくて赤い月がぽっかりと浮かんでいました。そこは近くに縄文の遺跡が出たあたりで、かつて「この場所から空を見上げて悩み事の回答を求めた人は何千人も、もしかしたら何万人もいたんだろうなあ」などと呟いた場所。縄文、弥生、中世、戦国、江戸、明治、大正、昭和、平成と月の存在に変化なし。それは良しとして、困ったことに、人の悩みも変化なし、なんでかなあと思うわけです。なぜ少しずつでも賢く進化できないのでしょう。現代のハムレットも若きウェルテルも悩み続けているし、八百屋お七は次々現れるし、王様は裸のままだし、女は鬼子母神だし、男はへなちょこだし、紛争は終わらないし、夫婦はもめ続け、子供は虐げられ、いやはや少しは神話や歴史に学んで、賢い思考と健康な精神を獲得できないものかと。

でもですねえ、「脳の不具合は過去に学べない」というこのことこそが、神が仕組んだシステムの1丁目1番地というやつでして、それを加藤諦三は「人は幸せになるようにはつくられていない、生きるようにつくられているのだ」と仰っていますが、言い得て妙ですよね。つまり幸せとは漫然として獲得できるものではなく、神様は、繰り返しやってくる不幸をバネに、これでもかこれでもかと幸福を目指そうとする態度と引き換えに種の繁栄を約束してくれている、ということなのです。ですから地上に遍く蔓延った自称ホモ・サピエンス(賢いヒト)こと悩める猿の皆様、生老病死を始めとする各種苦悩は人類存続の原動力なので、せいぜい月を見上げながらハムレットのように、若きウェルテルのように、ロメオとジュリエットのように悩み続けようじゃありませんか。
帰宅し庭に出て、満月を少し過ぎた月を見上げつつ、「ツクヨミよ今夜もありがとう」と二礼二拍手一礼。
昨夜は折しも昭和親父のお手本、野村克也氏の訃報あり。
妻のもと 永遠にぼやけよ月見草
ジュリエット・サッチーを見送ってから、ずいぶんとがんばりましたよね。
月見草が放った打球は遥か場外まで飛び、飛んで飛んで飛んで回って回って回って、とうとうお月様になりましたとさ。めでたしめでたし、とは言い難きことなれど、素晴らしき人生に献杯。