古来より、孫という存在の可愛らしさは実の子以上であると言われております。ぼく自身も孫として、祖父と祖母に猫可愛がりされた日々のことが、たぶん、一番古い幸福な記憶でした。冠婚葬祭で親類縁者が集えば、上座に据えられ、ヒデ坊は岩又(実家の屋号)の浩宮だなどという何とも照れくさいような、同時に大人は変なこと言うなあと思い、さらには俺ってどうやら特別な存在らしい・・・困ったことになりそうだ、という未来への不安めいた予感もあり、複雑な心境。田舎の長男とは、当時そんなことだったのです。
ネオテニー


そういえば、母が泣いていたことがありました。祖母がぼくを独占し、自分が母親役をさせてもらえないことに腹を立てたか、悲しんだのか、そんなことだったと思います。これもまた昭和の家にはどこにでもあった家族間トラブルだったのでしょうが、ぼくは祖母を悪く言う母親が理解できなくて、嫌な気持ちになったものです。子供にとって家族は全員仲良く楽しい関係なのが当たり前で、嫁姑問題を解析する思考回路など持っていなかった。ゆえに一瞬ではありますが、そんな母の泣き顔が嫌で嫌で、でも幼児には、反発や反論などできるはずもなく、たまらず泣き出したことを思い出しました。ただただ不思議だったんですよ、家族を悪く言って泣いている母親が。まあ、別に傷になったとかいうエピソードではなく、そういう時代に孫を経験した、ということなのですが。


さてさて、先日お呼ばれした孫の結陽の誕生パーティー。無事に4歳となりました。姉の美空は立派にお姉ちゃん役をこなしながらも羨ましいらしく、ねえねえ、あたしの誕生日はまだ来ないの?と。可愛らしいですなあ。ふたりの成長過程を目撃すると、時々胸が苦しくなるほど嬉しく愛おしく思えるのです。


サクラに続いてハナミズキ、ツツジ、モッコウバラ、次々に咲く花と新緑の季節に誕生日とは、なんと幸運なことでしょう。どこに行っても木々が孫をお祝いをしてくれているようで、ジイジくんとしては、その祝福にいちいちお礼を言いながらシャッターを切る数日間でした。


ふたりとも健やかに、伸びやかに成長中。好奇心がいっぱいで、人が大好きで、みんなが仲良しでいることを普通に思い、起きている間中ギャハハと笑ったり駆け回ったり。そして電池が切れると突然熟睡する。理想の人間像ですなあ。人は元来こういう性物であり、ネオテニー(幼生成熟)、子供の頃の特徴を有したままで大人に至る生き物である、という学説があります。ぼくは悩み多き思春期に読んだその生物学の説に乗っかって、堂々と少年的なままで老人に至っている次第。それが良かったのかどうかわかりませんけど、無理に大人らしく振る舞うことをしなかったことで、こうして少年的な庭を設計できていることは確かなのであります。


とにかく、みんな仲良く。とこに夫婦仲は良好であることがごくごく普通であり、家族円満を維持することが人として当たり前なのである、ということを、来世か今世か、もう一度夫婦を築く機会があれば、いち日も怠ることなくそのことを念じて暮らしたいなあと、反省を込めてそう思っています。


性根が腐った犯罪者であれ、大きな不幸を生み出す政治家であれ、頑張っても頑張っても上手く生きられずにもがいている人であれ、もしも幼い頃に円満家庭があったならそんなことにはならなかった、と断言できるほど、家庭不和の中で育つことの過酷さは人を歪にしてしまう。幼年期に負った歪さ、コンプレックスがネオテニーとなってしまったら、そこから派生する不幸は人類を滅ぼすほど甚大なものとなってしまいます。つまりですね、夫婦喧嘩など愚の骨頂。お互いに不満はあるでしょうけど、せめて子供の前では慎むことが肝要なり。昔、夫婦喧嘩の真っ最中に訪問したお宅のご主人が、そんな気配を察知して、ニヤッと笑って言いました。「喧嘩するなんてのは、知性の欠如ですよ」。いやはや、優しくさらっと言ってくれたのに、強烈に残るお言葉でした。


お恥ずかしい。その後知性を探し続けているんですが、これがなかなか手に入らない。高島屋にも買いに行ったんですよ、知性売り場はどこでしょうって。しかしいっくら本を読んでも、庭で月光瞑想をしても、女房のたった一言で気持ちがグシャグシャに破壊されてしまう情けなさよ。と、そんな自分の目の前で展開された娘夫婦の賢さたるや。ふたりとも子供の前で、見事に賢いんだよなあ。家庭円満を実現する知性的な夫婦像。おいおいお婆さんや、遅ればせながら、子供たちを見習おうじゃないか。もうそうそう長くは生きていられないんだし、理想のジジババ、おてて繋いでダンスを踊る、チャーミーグリーンをイメージしてみるのが、ぼくら夫婦の、最後の共同作業なのかもしれないよ。


孫の存在は、己が存在理由を際立たせてくれるものなり。結陽くん、美空くん、ありがとね。