こればっかしはぼくの数少ないというか唯一のというか、類いまれなる才能だと思うんですけど、如何な状況下にあっても設計への意欲が尽きることなし。少々寝不足でも、血圧高く耳鳴りがしていても、心配事や気分が落ち込む出来事に遭遇した場合でも、仮想庭を描き始めると無我夢中になるのです。
あなかしこ
今が盛りと咲き誇るツツジの花には、
上部の花びらにだけ模様があります。
これを「蜜標」と言いまして、
虫に蜜の在りかを知らせているのだそうな。

虫たちにはきっとその斑点模様が
とてつもなく感動的な絵画に見えるんでしょうね。
ネロが憧れ続けたルーベンスのように。

ああとうとう見たんだ。
マリア様、ぼくはもう思い残すことはありません。
そしてネロとパトラッシュは
その絵『キリストの降架』の前に横たわり、
やがてたくさんの天使に囲まれて昇天してゆきましたとさ。

めでたしめでたし、か、悲しすぎる結末か、
それは後々天国で、ネロを探して尋ねるしかありません。

不遇にして、行けども行けども辛いことのみ多き人生にあって、
感動を追い求めるという希望の灯火を決して見失うことがなかった、
それがネロの才能だから、
ぼくは、祝福に包まれた最高の結末だったのではないかと。
宿命は選択できずとも、終わり良ければすべて良しですから。

きっと今頃は背中に大きな翼を生やした大天使となって、
幸福なる天使業に夢中な日々を送っていることでしょう。
仕事、趣味、家事、はたまた大好物の食べ物とか、あるいは恋する人とか、何でもいいのでひとつ無条件にのめりこめるものがあるといいですよね。「いいですよね」ってのは言い換えると「楽ですよね」ということなのですが。あ、つまり、楽は楽しいという見地に立ってのお話ではありますが。
アリとキリギリスの寓話を幼い頃から疑問に思っていたのです。何だか楽しんだらバチが当たりますみたいな。おかしいですよね、あれ。アリだって努力に快感を覚えるから働いているわけですし、キリギリスは夢中で音楽を奏でて人生を終える季節を迎えたわけで、そこには必ず大きな悦びがあったはずですから。よく思うんですよ、リアルな時間は今現在だけだって。であるなら今を夢中になれることに使えば、過去の哲学者や宗教家から託宣を授かるまでもなく、ヒトはヒトなりに、アリはアリなりに、キリギリスはキリギリスらしくあればこれぞ幸せなりと。
人生には数多どうでもいいことと、ほんのわずかな大切なことがある。何が大切かという命題への回答はいたってシンプルでして、それは快感なのであります。達成感、発見、感動、共感、充実感、食欲、創造欲、表現欲、温もり、安らぎ、愛情あふれる世界にいる実感など、草木から虫から、カエルやメダカやウサギやオオカミや、ついでにぼくらも例外ではなく、その神が創りし快感プログラムに従って生息を許されているわけですから。
故にご機嫌さを振りまく人に幸いが訪れ、周囲を不機嫌に巻き込んで己がバランスを保とうという輩には必ずや天罰が下される。女房よ、帰宅した時にきみがいつも上機嫌でなくてもぼくは平気だ。これぞ長年の修行の成果だ。だがせめて、朝は、朝だけは、笑顔で過ごし出かけたいのだが。もしも可能なら、だが、「行ってらっしゃーい、今日も頑張ってねー」と送り出して欲しいのだ。あまりに遥か彼方となって、記憶中枢の小部屋を探しても容易には見つけ出せなくなってしまった、あの頃のように。
と、わが家のことに置き換えてしまいましたが、多いんですよ、苦悩する熟年夫婦(の庭の相談)。思うんですけど、日々上機嫌に快感を与えあったらよろしいのではないかと。女性は美しき笑顔を咲かせて、感動的な絵画のごとき表現で蜜の在りかを指し示し、男性はご褒美をちゅうちゅう吸ったらせっせと花粉を運びつつ飛び回る仕事に夢中となる、という花と昆虫の関係性に倣って。少なくとも大切なる人生の相棒と不快な関係を続けていたら、1999年7の月には寝坊して遅れてしまった恐怖の大王がやって来る可能性が大ですぞお。オオ恐ろしや恐ろしや。アアあなかしこ、あなかしこ。庭に出て、そこに繰り広げられている生物たちの「快感→幸福システム」を感じ取りながら、どうかかしこき選択をと、かしこみかしこみ申します。
あなたのサマー・オブ・ラブが、
大切な人と過ごす
エンドレス・サマーとなりますように。