風の歌を聴け 変化すること
ふと一年前の記事「 風の歌を聴け 想像してごらん 」を開いて再読し、愕然としました。昨年も今年同様に灼熱の夏で、終戦の日を前に書き記したことが、本日これから書こうしていること全く同じでそのままコピペで差し支えない。いかんなあ〜・・・一年前と今とで、自分の思考も行動もほぼ変化していないことにがっかりしたのです。進化ゼロだよピテカントロプス・イワフチくん、きみはこの一年、ひたすら足踏みを繰り返すばかりで前進していなかったのではないのかね。
ディケード単位で、じわりじわりと着実に進む温暖化。
昭和生まれには異常に感じるこの猛暑も
令和っ子には普通のこととなるのでしょうか。
孫を見ていると、ぼくらの頃とは夏休みの過ごし方が様変わりしました。
ラジオ体操は数回だし、基本的に室内で、涼しく暮らしているようです。
皮が剥けるほどの日焼けも当然のことながら御法度だし。
ちなみにぼくの肩から腕は、今年三度目の脱皮中(現場焼け)。
このヒリヒリ感が、海遊びの名残りみたいで気分いいんだけどなあ。
そんなこと言ってんのはぼくら世代だけになりました。
哀れ地球規模の変動に抗えるはずもなしサピエンス。
40万年前から、変化への適応こそが現世人類の生き残りの術なり。
仕方ないんだろうなあと思いつつも、
孫たちよ、
百日紅と千日紅は絵日記に描いといてほしいと願っているよ。
暑中涼あり、夏の情緒に揺れる花。
十年後、二十年後、彼女らの夏の風情はいかなものとなるのやら。
涼しい部屋でかじるガリガリくんかな?
進化とは変化の果てに生まれる適合性のこと。その変化はしばしば奇異であったり、異常に見えたりするわけで、だから世の中からは疎まれ危険視され、阻害され続ける期間を耐え忍ばねばならない。
オリンピックで脚光を浴びているスケートボードなどその典型で、あれは元々塾に行くタイプじゃない悪ガキたちが放課後の暇を持て余し、他人の敷地や公園の、段差や手すりやスロープを遊び場にしていたもので、そのダルダルの服装と、見るからに危険なゲームに大人たちは眉を顰め、スケボー禁止令を連発。俗に言う不良とはちょっとニュアンスが違うけど、彼らのストリートファッションも含めて、大人や年寄りには目障りなカルチャーだったのです。
あれから幾星霜、疎まれながらも遊びづつけたガキンチョたちは技術を上げ、カッコいい存在となり、競技者人口が増え、スポーツ競技となりました。それが今や世界中を感動させている。いいですよね、若者がたむろするストリートから発祥したスポーツって。あの国境も性別も年齢も超えた競技者同士の讃え合いは、最高にスポーツマンらしい姿だと思います。今夜から始まるブレイキンも同じような経緯で、スケボー文化と並走して新種目となった競技です。こちらも楽しみ楽しみ。
それで、ぼくの話です。進化をストップした感のある一年間に気づき、さて、どうしたものか。
変化です。進化を止めないためには多少ヘンテコリンでもまずは現状を変えてみること。変化、変化、変化が大事。これは庭を維持するコツと同じことなり。見慣れたとたんにその庭は輝きを失って、暮らす人に語りかけてくるのをやめてしまいます。「変化させないと沈黙する」のが、庭という場所の性質なのです。
そこに自分を投影して考えれば、さえない自分、いけてない自分、足踏みを繰り返している自分に気づいたら、即座に庭へ行き、雑草を抜き、花を植え替え、鉢の配置を変え、自分が過ごす場所も変えてみること。庭をそんなふうに、我が身を映す姿見だと思う思考を持てたら、人も庭も光り輝き出す。本当ですよこれ。ぼくの周りはその実例だらけですから。
ということで、この頃は読む本を変え、聴く音楽を変え、生活パターンを2時間早起き側にスライドし(4時起き)、寝る前にウッドデッキでストレッチを始め、頓挫していたこのブログを再開し、といった具合で怒涛の変化を試みている次第。
変化ですよ変化。何かに迷ったら、迷わず変化することです。