ご近所のミモザアカシア美しや
自宅から少し離れた駐車場までの坂道を、早朝と夕方、毎日歩いています。横浜市港南区日野、狸が住み着いていたであろう丘陵を切り拓き、人類用に宅地造成されたのが4〜50年前でしょうか。住民の多くがぼくよりも年長の方なので、ゆったりとした空気感が漂う、いい具合に年季の入った住宅地。ご近所のお年寄りと立ち話をしていたら、売り出し当時は人気が高くて何十倍かの抽選だったとのこと。50年前とはつまり昭和40年代。35年生まれのぼく的には5歳から15歳、保育園から小学校中学校までの、いわば猿が人間に成長した期間です。


その頃に、イワフチ少年が存在すらイメージしていなかった、遥か遠い横浜の新興住宅地では、当選に歓喜して、ありったけのお金と組めるだけのローンを手続きして買った土地に、ワックワクで家を建てて暮らし始めた人たち。あれから幾星霜、所々にはお若いご夫婦が新築をして、公園では子供たちが賑やかにボールを蹴っている。きっとヒーローは三笘なのでしょう。ワールドカップ以降、男女を問わず、ちびっこたちの間にサッカーブームが起こっているようです。

昭和40年代、実家が家電屋だったために、カラーテレビ、電気洗濯機、冷蔵庫が飛ぶように売れていた活気を記憶しています。世は三種の神器にとどまらず、マイカーブーム、トリスを飲んでハワイに行こう、家具のようなデカいステレオコンポが鎮座した。そうそう、若者が自分たちの音楽を獲得したのも40年代でした。大人たちがコンポで『南太平洋』を流し、茶箪笥から取り出したジョニ赤をちびちび舐めているのに対して、ぼくらガキどもは与えられた自室に篭りまして、ラジカセでフォークソングとロックを聴き漁って、ギターをかき鳴らしていた。

核家族化は、まさしく核融合のように止めどなく広まりました。好景気が続いて、開発、発展、拡大も止めどなし。人々の究極的な夢は庭付き一戸建てを手に入れることとなったわけです。庭付き一戸建て、後にぼくはその時代の流れの中に浮かんだ『夢』を舞台として、庭を思い描き出現させてゆくことを生業とするわけで、見ようによっては時代に乗ったことの幸運に感謝せねばと思ったり、いやいや時代の開拓者だったのであ〜る、と、胸を張ってみたり。

しかし考えるべきは我がことではなく、坂道の途中にある一本のミモザの木のこと。ここ数日、その姿形に足を止めて感動しきり。美しいのです。これは植木屋が持つ剪定セオリーでは絶対に仕立てられない。時々奥様が通販で買ったのであろうと思われる高枝切り鋏を使い、チョンチョンやっている。声をかけたら「切らないと電線に届いちゃうから」と、徒長枝だけを切っています。専門知識など関係のない、丁寧な暮らしの積み重ねで仕上がった樹形で、故に下枝も揃ったダルマ型に満遍なく小枝が揃い、全体的に咲いている。

このお宅には他にも、ナニワイバラ、セイヨウニンジンボク、コニファー、数本の雑木の類が植っていて、玄関先には手作り風のプランターに季節の花がアレンジしてあります。どれもこれも幸福感が伝わってくる元気さと姿の良さで、これまたやはりプロにはできない、その奥様ならではの世界観。ぼくがいつも立ち止まって眺めるせいでしょうか、顔見知りとなりまして、しかし会話するほどではなく笑顔と笑顔で軽く頭を下げ合うだけの関係性ながら、朝に晩に、そのお宅の庭へを目を向けつつ「いい人生を歩んでこられたんだろうなあ。こなふうにう暮らさなきゃなあ」と思うのであります。