デュアルってイメージしたことありますでしょうか。複層的、二重構造、相対の、一対の、という意味で、その概念をさまざまなことに当てはめることで、多くの悩みや課題が解決します。などと言うとバブル期以降に大流行りした自己啓発やスピリチュアル系の話のようですけど、そうです。デュアルの活用は引き寄せや波動の法則と同じ、非科学的でありながらも実証はできる、プラセボ(偽薬効果)のようなもので、怪しいからといって全否定するには惜しい、されどそっちに行きすぎると怪我をする世界。もしも興味があればしばしお付き合いくださいませ。
二重構造
記憶の中で咲く花は枯れることがない。
ことに夏休みの終わりに咲いていた花は。

例えば庭です。そこを視覚的に捉えると、荒れていれば嫌な場所だし、雑草が生えていれば厄介な場所。だから目を背けてカーテンを閉じ、存在しない場所と解釈して庭の荒廃は進むばかり。でもその裏側にデュアルなもうひとつの庭があるとしたらどうでしょう。視覚的ではなく感覚的で精神的な庭空間です。そこが荒れていたら整えます。なぜなら感覚的にして精神的な庭が荒れていることはお肌が荒れている、服装が荒れている、暮らしのリズムが荒れているのと同じことで、気が滅入るし、放っておいたら実生活上で損が生じる。だから気合一発!即座に整え作業に着手するはずなのです。そして気分爽快に日常が過ぎてゆく。これがデュアルに捉える効用です。何事にも同時に存在するもうひとつのそれが存在する。コロナコロナで不安が続く世界の裏に、表裏一体で存在するもう一層の時空がある。そこは世相や降り注ぐ情報の豪雨に影響されない世界で、そこにいるときのあなたはあなた本来の、不安も不満もない、疲れを知らない子供のように溌剌としている。その幸福なる裏側の世界と、苦悩に満ちた表層の日常世界を行き来することでバランスが整い、人生を健康に、豊かな気持ちで進んでいけるのです。曰く「鰯の頭も信心から」、曰く「信じる者は救われる」、違和感なくそういう言葉を受け入れて暮らしていた昭和時代には、今よりも不便な暮らしで、今よりも貧しく、今よりも不条理な苦難が多かった。しかし今よりも人々の心は豊かで精神は正常だった。

今朝のワイドショーで花泥棒おばちゃんの犯行映像が流されていて、いやはや、と首を振ってしまいました。道路沿いに茂っている花壇の花を盗む輩がいるってんで、住人は防犯カメラを設置し、犯行現場を押さえてその動画をテレビ局に売る。アナウンサーは「なんとひどいことを。住人が丹精した花を持ち去るなんて許せません。犯人には大いに反省してもらって、2度とこういう行為をしないでいただきたい」と正義の声を上げる。映像には花柄模様のシャツを着たおばちゃんが自転車で通りがかり、まったく悪びれることなく道路にはみ出て茂っているマリーゴルドかなんかを2本手折ってカゴに入れて去って行く。どうです、これ。ぼくはこの、正義の義憤で防犯カメラを設置した住人と、その映像を流して花柄おばちゃんを晒したテレビ局と、どちらもイケズだなあって思うんですけど。昭和の御世では「花盗人は風流の内」と言ったもの。なんでここまで気持ちがガサガサしてしまっているのか。この人たちはデュアルな世界を失っているからかもしれないなあと思いました。いいじゃないですか、盛りを過ぎて道路に溢れ出ている花を手折って持ち帰るって。だめ?だめですよね。まあぼくの頭のOSが昭和からバージョンアップされていないから、こんなふうに感じたのでしょう。あ、花柄おばちゃんもイケズですよ。なんで2本なんですか。2本というのはとても活けづらい。持っていくなら3本か5本か、奇数にしたらよかったのに。

おっといけねえ、話を戻します。デュアルです。今現在の実生活が表で、過去の記憶も含めた精神的な世界がその裏側にある、ということ。裏表というのは適切じゃないかもしれません。どっちが表なのかは人それぞれであり、あるいはどちらも表であるというのが正解なのでしょう。そう、メビウスの輪ってあるでしょ、あれですよ、あれ。表を歩いているうちに裏になって、そのまま歩いているとまた表にいる、どっちが表でどっちが裏かわからないまま両面を往還する人は健康です。つまり、ストレスを感じる世界の裏にあるノンストレスの世界、言葉の洪水にアップアップする日々の裏にあるノンバーバル、静寂の世界。片面だけだと無理なんですよ、無理無理。どんなにタフな人でももう一面の存在を意識できないままで過ごしたら驚くほど早くに自滅します。アルコールや各種依存症、育児放棄・虐待、家庭崩壊、実例は列挙するまでもなく、連日報道されている通りです。なぜ進路変更ができなかったのか、裏側へ。毎日店からホームセンターのお客様を眺めていての実感として、コロナが始まってから弱い者から壊れていきました。昨年は高齢者の男性、女性は驚くほど強かった。今年は若い女性。若い男たちは案外タフだった。そして反面、恒常的に、世代に関係なくこの難局を切り抜けるために夫婦で手を取り合って、あるいはディスタンスを取りながら共に頑張っている姿に何度も心打たれました。夫婦って大事、家族って大事、その方々が庭の整備を聖戦の武器とするという発想でのご来店&お問い合わせが次々とあって、悔いが残るのはそれをこなしきれずにがっかりさせてしまった人たちのこと。やるだけやったけど力及ばず、申し訳ありませんでした。と、お詫びのコーナーを挟みつつ、いかにすれば日常と同時に存在するその世界へ行けるのかをお伝えします。

デュアルな精神世界、どうすればそこへ行けるのか。裏側にあるもう一層の入り口は、そう、庭であったり、小説であったり、週末に教会へ通うことであったり、軽いお酒であったり、なんでもいいので定期的にそっち側へ行くことを意識して暮らす、これは理屈ではなく知恵。ぼくの場合はいとも簡単に庭です。庭から入っていく。毎夜毎夜の庭時間の意義はこれで、故に全相談者に「庭で過ごすことをイメージしてください」という布教を続けているわけ。これが実践できたら、庭がそういう場所になったら、絶対的に有利ですから。

昭和時代には「人生楽ありゃ苦もあるさ、涙の後には虹も出る」と歌ったものです。時が来れば解決する、そのうちいい事もあるから今は耐え忍べ、というような考えですけど、このデュアルを当てはめれば違ってきます。苦があったら即座にひっくり返せば楽がある。止まない雨はないし、明けない夜はない、とも言いますが、雨降りのその最中に裏側にはカンカン照りの晴天があり、夜明けがまだ遠いミッドナイトの裏側には眩しい朝日が存在する、ということになります。脳みそなんぞは案外単純な臓器で、発想の転換とかちょっとした刺激、音楽や好物の味や本の1行の刺激でパラダイムシフト。なあんて、言ってる自分が言うほど器用ではないので、いつもいつもこの手法が功を奏するわけではないにしろ、こんな考え方があるのだということを記憶しておいて、決して損はないと思います。

人は一瞬で地獄から天国へ行ける。間違いない。