春雨じゃ
年末から続いてた晴天に感謝しつつ、今朝はひっさしぶりの雨にホッとしました。潤い、やはりぼくらは植物に似て、湿気によって心身が整う生物なのでしょう。

空気は暖かで、うっかり入念な厚着をしてきた自分を「おいおい、天候とずれとるぞ」と笑いながら歩く。思わず口を衝いて出る歌詞の一説、春の雨はやさしいはずなのに。

『 春の雨はやさしいはずなのに 』 小椋佳
むなしさが 夕暮れと雨を連れてきて
寂しさが 夕空と街を闇にぬり
何だか涙も出やしない 出やしない
春の雨はやさしいはずなのに
全てがぼやけてくる
どってことないんかな
どってことないんかな
むなしさが 想い出も友も連れ去って
寂しさが 言葉も声も吸い取って
何だか涙も出やしない 出やしない
春の雨はやさしいはずなのに
全てがぼやけてくる
どってことないんかな
どってことないんかな
春の雨はやさしいはずなのに
全てがぼやけてくる
どってことないんかな
どってことないんかな
小椋佳、好きだったなあ。当時はタモリ曰くの「ネクラ」の代表選手だったから、同級生とかには言わずに、でもLPを買い漁って、西陽が入る四畳半のアトリエ(自室)で聴きまくっていました。絵画と写真に夢中だったので、油絵具と現像液の匂いが濃厚に混ざり合い、今思うとあれは体に悪かったのでは。しかし懐かしい、濃密に自分と向き合った数年間でした。引きこもり?学校にも遊びにも行っていたので引きこもりではない。でも思考は完璧に、自己の世界に引きこもっていました。

男子にはあの時間が必要なのであります。上の世代は反社会的であることが時代的に価値を持っていて、反戦、反体制、常識を否定し革命を叫び、ゲバ棒、火炎瓶、シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく。やがて自滅し消滅し、髪を切っていちご白書をもう一度。ネクラのぼくは「革命は自分が自分に仕掛けるべきであって、体制批判や実力行使などは意味がないのいだよ」と、加藤諦三が早稲田の学生に叫んだ「自己変革せよ!」の声に震えるほど共感し、自己変革、自分を高い壁の向こうにポーンと投げてみろ。そこは崖かもしれないし、お花畑かもしれない。青春の意義とは現状に争うことではなく、現状を捨て去り荒野を目指して旅立つことにあるのだ。

唐突に、ですが、リサが亡くなりましたなあ、リサ・マリー・プレスリー。悲しみとかじゃなく、何という報われない人生であったことかと。音楽で世界を変えた億万長者のひとり娘は、とうとう愛に満ちた家庭を築くことなく苦悩の日々を終えました。父と同じく若くして、偉大なる神に召されるようにして。何だかなあ、フランダースの犬のラストを見るようで、姪っ子みたいに思っていた人でしたから。
とても遠くから無責任に客観視すればでありますが、空手トレーナーと浮気をし、幼いリサの手を引いて出て行ったプリシラの若い行いが、その後父と娘を史上最高の有名人にまで成長させ、後払いの代償であるかのように、神は父と娘に乗り越えられない苦悩をお与えになりました。アーロン、あんな女どうでもよかったのに。リサ、お父さんは死ぬ瞬間のその時まで君のことを愛し続けていたのだよ。アーメン。

春の雨はやさしいはずなのに
全てがぼやけてくる
どってことないんかな
どってことないんかな
取り留めもなく、春雨じゃ、濡れて行こう。
さ、設計設計。偉大なる神から召されるまでは、全力で。神の偉大さは、片手に奇跡の杖を持ち、もう片方の手には残酷な剣を持っているところにある。だから、どうしても心からは好きになれないのだよ。アーメン。アーメン。アーメンソーメン冷やそうめん。アメリカでもインドでも日本でも、神は不出来である。それは人が、逃れようもなく不出来な存在だからである。だったら意地でも自分の中に、幸福を追求し続ける神を見い出さなければなるまいて。ぼくは残り時間を一日たりとも無駄にせず、庭を通して奇跡を起こし続けるのだ。なーんてね。春の雨は、やさしく肩を揺さぶるものですなあ。
エルヴィスは素直で真面目で、敬虔なクリスチャンでした。だから世界中の人を幸福へと導く、偉大なる人生を送りました。しかし、です。本人に幸福がもたらされることはなかった。幸福とはお金や名声ではなく、愛する家族と紡ぐ円満な家庭なのです。家と庭で家庭、庭ですよ庭。今は記念館となっているファンの聖地、テネシー州メンフィスにある自宅グレースランド(リサ・マリー・プレスリー所有)には、悲しいですねえ、プールも映画館も大きなパーティールームもあったのに、家族で過ごす庭がなかったのです。