花咲く暮らし
ネアンデルタール人(ホモサピエンス以前から繁栄していた原生人類)の埋葬には、すでに供養の花束が添えられていたそうです。これはつまり、ぼくらは人類としての起源の段階で花の美しさに惹かれ、それを神聖な存在であると認識していたということです。おそらく他の霊長類、チンパンジーやゴリラは草花を愛でることはないと思われますから、もしかしたら花と人との関係性が人を人に導いたのかもしれません。
仕事に追われ、雑事に翻弄されながらストレスを溜め込んでしまったら、庭の花に意識が届かなくなる。誰でもそうです。ぼくもそうですから。ぼくなんぞはヘナチョコですから、少しのつまずきですぐに猿化してしうわけでして、いやはや。
日々庭の手入れをしながら、そこを花いっぱいの楽園にしたいというイマジネーションがあるうちは、猿化することのない健全な暮らしを保てるのではないか、という仮説を立てたのが20年ほど前でした。
その仮説「花の数と幸せは比例する」を、その後に襲ってきた津波や災害や紛争から立ちあがろうとする人たちが、瓦礫に咲いた花に希望の光を見い出し、暮らしに花数を増やしていったシーンを見るにつけ、これは仮説ではなく真理なんだと思うようになりました。
また身近な人たち、庭を楽しんで暮らしている方々が苦難に遭遇した時、へたり込みそうになる自分を鼓舞するが如く「こんちくしょう!倒れてたまるかあ!」という叫びが聞こえる様子で、黙々と庭に花を増やしていった姿も繰り返し目撃してきたことです。
仮説その2。花咲く庭があれば人生は上々。
人は頑張ります。何が起こっても頑張ります。ゴリラ・チンパンジーに比べたら異様なほどの執着で頑張る生き物なのです。ところが花に意識がいかない状態でいくら頑張っても、結果は人間性が壊れてゆくばかり。お話は飛躍しますが、戦争を繰り返している世界のリーダーたちの誰が、花に意識が行っているでしょう。きっと国防に忙しくて庭どころじゃないわけで、だから頑張れば頑張るほど悲劇を招いている、そんな気がするのです。庭屋の穿った見方ではありますが。
でもほんとに、もしもトランプが、プーチンが、習近平が、ガーデニングを楽しむ暮らしをベースとして頑張ったとしたら・・・
飛躍から余談へ。ぼくの知る範囲でカーターとオバマとゲバラは、土と親しみ花を愛でた人でした。
庭に花を咲かせることは個人レベルの幸福追求です。自分と家族の人生を幸せなものにすべく、花苗を植え、育て、一日単位で庭に意識をやり手入れを怠らない。今日一日が花咲く我が家でありますようにと、そんな気持ちで庭に出る時、誰ひとりプーチンやトランプのことなど頭にはないでしょう。それどころじゃないんですよ、自分の半径数メートルの平和を維持するのに必死で。
それが、その個人レベルで幸福を築く努力を続けることが人間らしい営みであり、その個々人の集合体が社会として成り立っている時に、本当の平和が実現するのだ。と、何だか『銀河鉄道の夜』みたいな締めくくりになりましたが。
あ、今日は誕生日でした。パソコンが知らせてくれました。
随分と長生きできたなあ。ここからは、せっかくですからクオリティ・オブ・ライフ、幸せな感動を数えて過ごそうと思います。それ以外に、世界平和に寄与する時間の使い方などないのだと、そんな心境の朝の庭でした。
ハナノカズトシアワセハヒレイスル ハナサクニワガアレバジンセイハジョウジョウ

















