庭論・紺屋の白袴
今日は少々ややこしくかつ情緒的な庭論のため、数学的技法で叙情詩的世界へといざなう曲を、熊本マリさんの指で。これを流しながらゆっくりとお読みいただけたらと思います。
音楽の父ヨハン・セバスティアン・バッハは数学頭の人、複雑なパズルを五線紙上に組み立てるやり方で、教会やパトロンからの注文の山をひたすらこなしてゆく人生でした。だからでしょうか、庭を設計するときの BGM に最適で、叙情に溶けて行きがちな頭を論理的に整えてくれます。中でもこれ、ゴールドベルクはお気に入り。この曲に興味を持って YouTube で聴けるだけの演奏家のを聴きました。その結果、本来チェンバロ用に作曲されたであろうこれを、ピアノで再表現したマリさんのが飛びきりです。チェンバロだとギクシャクしがちな旋律を滑らかに、一音一音が清らかに奏でられ、人が夢の世界へと入ってゆく、あの瞬間的な幻想に引き摺り込んでゆく。試しに夜の庭で、これを流しながらお気に入りの本をめくってみてください。不意にストーリーが遠のき、脳内を記憶の絵筆が一気に塗りつぶすような、寝落ちの快楽を楽しめることでしょう。
ちなみにこの曲の魅力は、最終が冒頭のアリアへ戻るというループのアイデア、仕掛けを凝らした龍安寺の庭的な、ビートルズのサージェントペパーズみたいなコンセプチュアルな点にあるのです。素人解説ゆえ無粋に過ぎるやもしれませんが、最初に聴いた時それにノックアウトされたものですから。
これまでこのCDを何人にプレゼントしたかなあ。今はこうして YouTube で聴けますから、あなたへ、贈りますね。なかなかいいなと思ったら、作曲の由来もググってみてください。
庭で見かける虫たちは、見つめるほどに美しい。
そして見つめるほどに不思議不思議。
学者なら科学的に探求するであろうが、ぼくの頭は
ついつい詩的に、
情緒的に捉えてしまう。
やれやれ、だから悩みが尽きないのだ。
まったくもって難儀な頭である。
では本論へまいります。行きますよ。
1から100までを1+2+3+4+5+・・・と足して行ったら合計はいくつになるでしょう。
あなたならどうします?どうするもこうするも最初から順に足していきますよね。ところが高度な数学頭の人はそうせずに、1〜100と100〜1を2行に並べて考える。1+100=101、2+99=101、3+98=101、おやおや必ず101だ。であれば101×100回で10100、で、1+100と100+1、2+99と99+2と2回出てくるから2で割って、答えは5050であると、短時間で正解を導き出してしまうそうな。
どうです、いろんな苦労や悩み事も、このクールでシャープな数学頭を使えばたやすく解決できそうな気がしますよね。ところが悲しきかな、そういう頭脳の持ち主は稀有でして、たぶん世の中に1%も存在していないのです。
ではどうするか、詩的頭脳のマジョリティーは悩み多き人生から逃れられないのか。大丈夫です。そこで役に立つのが数学頭の科学者たちが残した名言・格言の類。ダ・ヴィンチ、ガリレオ、パスカル、ニュートン、ダーウィン 、エジソン、アインシュタイン、村上和雄、ホーキング、山中伸弥、この10人の学者たちは、驚くことに同じテーマの探究に人生を時間を費やしました。そのテーマとは「森羅万象の公式化」。美しさと不思議さに満ちた自然界の出来事を、数字を使って解析し、図式や方程式で、法則として説明づけようと躍起になったのであります。興味深いことに彼らのその科学的行いはやがて心の在り方、哲学へと繋がってゆきました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452〜1519
音楽家 建築家 数学者 幾何学者 解剖学者 生理学者 動植物学者 天文学者 気象学者 地質学者 地理学者 物理学者 光学者 力学者 土木工学者 画家
自然は自己の法則を破らない。
ガリレオ・ガリレイ 1564〜1642
物理学者 天文学者 哲学者
結果にはすべて原因がある。
ブレーズ・パスカル 1623〜1662
物理学者 数学者 思想家 神学者 哲学者 自然哲学者
人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もひ弱な葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。
アイザック・ニュートン 1642〜1724
数学者 物理学者 天文学者 自然哲学者
今日できることに全力を尽くせ。それが明日の一段の進歩となる。
チャールズ・ダーウィン 1809〜1882
地質学者 自然科学者 生物学者
生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。変化に最もよく適応したものである。
トーマス・エジソン 1847〜1931
発明家 起業家
人の最大の弱点は諦めることにある。成功する確実な方法は、常にもう一回だけ試みることだ。
アルベルト・アインシュタイン 1879〜1955
理論物理学者
誰かのために生きることにのみ、生きる価値がある。
村上和雄 1936〜
分子生物学者
志の高いものに、天は味方する。
スティーブン・ホーキング 1942〜2018
物理学者
怒ったり不満を言ったりしても、人は振り向いてくれない。
山中伸弥 1962〜
医学者
家族の支えがないと研究は続けて来られなかった。
自然を探究すると心に至り、心で探究すると自然が見えてくる。自然→探究→心→自然→探究→心→自然→探究→心→自然→探究→心→自然・・・。
コロナにしろ台風にしろ地震にしろ、厄災もそれは自然。不自然に対応したら適応できないです。そしてとかく忘れがちなのはぼくもあなたも言わば野生動物であり、自然の一部であるということ。だからくれぐれも不自然の罠にはまり込むことなかれ。スマホを使いこなそうが、宇宙にまで棲み家を広げようが、それが生物的な幸福に直結するものではない。まったく違いますよね。自然の一部としての健全さを保ち、愛情や優しさや勤勉さや感動することなどの、ヒトに与えられた特性を活かして、循環の中で花が咲くような命の使い方をしなければ。困ったことに特性の副作用・反作用として様々な悩みや苦しみもあると思いますけど、そんな局面で必ず「これって不自然じゃないかな?」と問うてみてください。
果てしがないトンネルみたいなこの状況下でも、しっかりと家族で笑い合って暮らしている人たちを観察してみてください。きっとそこにはごく自然で、ごく当たり前な思考や行動や、自然に即して暮らすお作法みたいなことが見えてくると思うのですよ。自然ですよ自然。自然を暮らしに取り込む場所が庭。庭が荒れている時、必ず人が荒れています。寒々とした庭、苦しそうな庭、味気ない庭、存在理由を失って久しい庭、それらはどれもこれも、そこに暮らす人の何らかの不自然さが原因となっているのでないかと思うのですが。
と言いつつ、紺屋の白袴、ぼく自身も油断するとすぐに不自然に陥ってしまうわけで、だから庭から目が離せないわけです。庭なんてどうでもいいや、忙しくて庭どころじゃないよ、そんなふうにはなりたくないのです。自称賢い人間、ホモ・サピエンスのひとりとして、枯れる時に、いろいろあったけど幸せな庭を生み出し続けられたなあと、なかなかの人生であったと、よくやったよと、そう思って(できれば庭で)倒れたいので。自然に考えて、愛する子供たち、孫たちに残せるものってそれですからね。