相談会で、クラクラするほど幸せな暮らしを実現させた初老の紳士と話す機会がありました。息子夫婦と同居すべく建てたゴージャスな二世帯住宅の広いリビングには誰もが憧れる薪ストーブがあり、庭での薪割りが楽しくて仕方ないとのこと。差し出されたスマホにはご自慢の、おとぎ話に出てくるように立派な斧と共に、庭の端っこに積み上がった10年分はあろうかと思われる薪の山、そして奥様と若夫婦と天使のようなお孫さん、みなさん揃って笑顔で暮らす様子が次々と。いったいいかにすれば、どのような深遠なる理念を持って生きればこんな人生を組み立てられるのかを尋ねようとした刹那、逆にその白洲次郎似の紳士から質問がありました。
とても満足しているんですよ、この家。ただし庭を除いてですがね。最初は芝生を張って、それはそれは美しくて孫たちも駆け回っていました。ところがたった1年で芝は無くなり雑草ががはびこってしまって・・・ どうしたらいいんでしょう。
シェークスピアの時代からジェントルメンはいつもストレートにしてお上手に、専門職にある者を使いこなすものです。
状況を伺うと日当たりは良さそうだし、水はけの悪さが原因と思われました。おそらく芝に適した土壌改良がなされていなかったのでしょう。下地からやり直せば大丈夫ですよとお答えしましたが、白洲次郎の表情からして、欲しかった回答はどうやらそういうことではなかったようなので、ぼくは口を閉じ、次に来る言葉を待ちました。
新築の時に家のことは溢れるように理想像が浮かんだんですが、庭となると皆目、何をどう考えたらいいのかわからず設計士から勧められるままに芝生にしただけで、どうも最初から違う気がしていたんです。
なあるほどですねえ。ではどんな庭が理想なのでしょう。あ、それが考えられないわけですね、何をどう考えたら理想へたどり着けるのかが。
ということです。
ん〜・・・ではこんな方法はいかがでしょう。無礼承知の設定として、その素晴らしい家がわが家だとして、ぼくが思う理想の庭を描きますからそれを叩き台に検討してゆく。設計が出来上がれば思考に具体性が生まれ、仕上がったプランへの賛同と反発、肯定と否定が明確になるでしょうから。とかく考えられないというのは対象があやふやなままでたくさんの点が無秩序に散らばっている状態ですから、ぼくなりに点をつないで線にしてみるというジィブズ的作業、いわばレッツ・ビギン、ビギン・ザ・ビギン、考えることはそれくらいにして、ピサ大聖堂の鐘楼から実際に何種類かの鉄球を落としてみる、という試みです。
うん、それはいい。おたくのホームページにあるコラムのコーナーを拝見して、これは!と閃くものがあったので来てみたんです。もっともその閃きの正体もまた庭と同じくわからないままでしたが、でもあれは実に面白くて全部読みました。あなたは庭のコラムニストですね。
ゲゲゲ!ジェジェジェ!お読みになったんですね、あれを。「恥ずかしいから読まないでください」という白いわふちと「毒は時に薬に変容する」という黒いわふちがせめぎ合った結果、勝利した悪魔のようなあいつがあのコーナーを開設しました。夜の庭で過ごしている時に意図せずとも湧いてくる言葉には、何かしらの、誰かしらからのメッセージが託されている気がして。つまり、こだまでしょうか、こだわりでしょうか、言霊でしょうか、という気がして消えないうちに刻んでおこうと。それがいつか何千年か後の違う猿の社会で発掘されるロゼッタ・ストーンとなって、解読の結果「ああ、ホモ・サピエンスは庭の意義に気づくことなく滅んでいったのか」という繁栄のための材料になるやもしれず、・・・・(長いので後略)。
前からに気になっていたんですよ、ほら、そこの看板、「楽しんでますウ?庭」。ああそうか、庭ねえ、庭、あるある、庭。はは、楽しんでないなあって思って。
ふむふむ、あれがお気持ちに引っかかったということは、あなたは「楽しむこと」を人生上の大切な理念になさっているのですね。
そうです。若い頃はとてもじゃないけど楽しむなんてできなかったから、その反動でしょうか、強烈に。島倉千代子じゃないけどいろいろありましたからね。
ですよね、いろいろありますよね。ぼくなんか「もう若くないさ」と女房に言い訳するお年頃なのにも関わらず、そのいろいろの真っ只中にいます。
ははは、あなたはそんなふうには見えないけど、でも、みんないろいろありますよ。来てみてよかった。またムクムクと楽しくなってきました。ではよろしくおい願いします。
はい、こちらこそよろしくお願いいたします。
ぼくは言葉を探している。たったひと言で世の中の庭への意識がマイナス域からプラス域へとシフトするような、例えば「〇〇の庭」「庭とは〇〇である」、あるいは庭抜きで理想の庭を表す「〇〇〇」を。その言葉はいつか降ってくると期待を込めて確信しているが、暮らしの中で目にする横浜の庭と外構を見るにつけ、レノンとミューズが肩を組んでわが家の庭に降臨するのをのんびり待っている場合ではないので、こうして出会うひとつひとつの庭に、言葉にならない線を引き、語りつくせない理想のレイヤーを重ねて立体とすることを、今はただただひたすらに。
ガリレオ・ガリレイが ローマ教皇庁検邪聖省の異端審問で終身刑を言い渡され、「それでも地球は回っている」といい時放ったのは69歳の出来事。ぼくはまだ59歳であるからにして最低あと10年は「ぼくから逃げようたって無駄だョ、逃げれば逃げるほどぼくに近づくってわけ。だって地球は丸いんだもん!」という、かの四つ葉の天使の声を脳内にリフレインさせつつ、中指のペンだこを爪ヤスリで削りながら、ハズキルーペを友としながら、それぞれの依頼主にやってくる未来が花咲き乱れる幸福な時間となることを信じるように脳をコントロールしながら、その都度都度の条件下における理想の庭を思い描きます。
天にましますガリレオ様、お願いがあります。その後視力を失ってもなお衰えることがなかったあなたの宇宙物理学への熱を、いつでもいいので、しばらくは平気だから急ぎませんので、ぼくの庭に届けていただけないでしょうか。それさえあれば必ず庭革命を成就できると、昨晩庭の書斎に夜空の星からやって来た、ミューズの使いの者が申しておりましたので、なにとぞなにとぞ。