道路から上がったところにある宅地です。近くの緑を取り込んだ、素晴らしい見晴らしのウッドデッキができました。
必要なところだけ目かくしをして、あとは広い空がわが家のものになりました。
これがビフォーです。写真で見るとまるで何年もそこに出たことがないような感じで、荒れているだけに見えると思うのですが、そこにはこれまで楽しんできた名残り、楽しい記憶の轍みたいなものがたくさんありました。ガ-デニングはもちろん、バーベキュー、大きな薫製の釜、犬小屋・・・、ワンちゃんは数年前に亡くなったそうで、もしかしたらそれもあって庭に出なくなったのかもしれません。キッツイですもんね、愛犬との別れって。まあ、理由はいろいろあるのでしょう、もしかしたらこれといった理由は無かったのかもしれません。かつてみんなで楽しんだ庭が、いつのまにか生活外のスペースになって荒れてしまう。庭が色を失っている状態。住宅地を歩いているとこういう印象の庭はいたるところにあります。家族のライフサイクルやら何やらで、庭ってそういう時期を運命付けられているのかもしれませんね。で、問題はそこからどう展開するのかなのです。
楽しさを無くした庭をどう生き返らせるかというのは、私の仕事のかなり大きな部分を占めている課題で、それは単に庭をリフォームする、整備し直すということでは実現しない部分があって、つまり、そこに暮らすご家族にその意志が無ければ、庭を含めた生活全般をここらへんで仕立て直してみようというイマジネーションが無ければ、私がいくら考え尽くした庭を設計してみてもそこに価値は生まれません。「よーし、ここらでひとつ」というお客さまの気持ちを具現化するお手伝い、それがガーデンリフォームなのです。
今回の小沢さんはまさにそのパターンで、テニス帰りに『レノンの庭』に立ち寄っていただいて、移動ついでにウォーキングしてきたのでしょう、息を弾ませ汗を流しながら「庭を・・・」と話す奥様から、その種の前向きなパワー、まぶしいほど明るいオーラを感じました。
その初対面がとっても印象的だった奥様と具体的にあれこれ打ち合わせをしてでき上がったプランがこれです。
Plan A
このPlan Aを叩き台にしてご夫婦と打ち合わせをし、修正してでき上がったのが次のPlan B。
Plan B
結局ややPlan Aに戻る感じで、両方をミックスしたカタチでご契約いただきました。明日からたっぷりとビフォー・アフターをご覧いただきます。
お会いした時にまぶしいほど明るい印象を受けた奥様、その後も何度かお会いして思いましたが、イイですよねえ、奥さんが明るいのって。うちも幸い明るい奥さんなので、ホント幸せに思っています。
小沢さんちは宅盤が高いので見晴し抜群、目隠しの必要もほとんどありません。おまけに角地で隣が公園で、傾斜地の多い横浜でもなかなかこういう立地はないのです。しかし考えると、もしかしたらそのことがかえって庭に意識が行かなくなっていった要因かも知れないなあとも思いました。
Before 1
After 1
道路を歩く人から庭の様子は見えませんから、そこに雑草が生えていても対外的には気になりませんし、庭に何か植えたり建てたりしなくても窓の外は心地よい風景が見えるわけですから。
Before 2
After 2
だとしたら、皮肉なことです。平たんな住宅地でお隣の北側の壁や窓や給湯器を気にしながら、どうしたらいい庭になるかと悪戦苦闘している人が多いのに、それらが気にならない環境だから、かえって庭の存在が生活から抜けてしまう。海沿いの家に暮らす人が、友人たちからうらやましがられるのに、実際はほとんど海辺を歩いたりしない、そういうのに似ていますよね。うらやましくももったいないことです。
Before 3
After 3
条件に恵まれているのにそれを活かす方向に意識が行かないということで言えば、健康がそうです。五体満足なだけで実はどれだけありがたいことか。でもそれに感謝するどころか不摂生を続けてしまって、その結果あれこれ身体の不調を嘆いている、いやこれは私のことなんですけどね。生きたくても長生きできない人やいろんな障害を抱えながらはつらつと頑張っている人がたくさんいるのに・・・。意識して健康維持につとめなくてはいけないなあと反省して・・・、あれっ、なんでこういう話になったのかな。軌道修正して庭の話に戻します。
庭スペースの環境条件、日当たりや土壌や周囲の様子ですが、そのマイナス要因を改善して楽しみやすくするということと同時に、その場所のプラス要因を最大限活かすことも合わせて考えたいものです。さらに、マイナスだと思っていたことをプラスに転じることもできますので、庭と対峙した時には多方向から柔軟にイメージしましょう。
Before 4
After 4
ちなみにマイナスをプラスに転じるってのは、捉え方を反転させるということ。『外から丸見え』→『開放感がある庭』、『狭くて暗い場所』→『隠れ家的にこもれる場所』、『日当たりが悪い』→『情緒あふれるシェードガーデン』、『雑草がすごい』→『植物がよく育つ』、『風が強い』→『風通しのよい庭』、『土が悪い』→『堆肥を作りながらエコな生活』といった具合で、屁理屈みたいですが、設計する時には常に働かせる思考回路なのです。
これを日常生活に応用すると、『口うるさい妻』→『よく気が付く妻』、『仕事の愚痴ばかり言う妻』→『働き者の妻のストレス解消』、『酔って絡んでくる妻』→『一緒に酔っぱらえるありがたい女性』、『今月も赤字だと嘆く妻』→『仕事に励むしかないという意志統一ができる』、おっと、日常生活と言いながら妻のことばかりになってしまいました・・・。柔軟に柔軟に、庭づくりと家庭づくりは似ているのです。
ビフォー・アフター、昨日は道路からでした。さっ、玄関脇から庭に入っていきましょう。
玄関ポーチから、
Before 5
After 5
Before 6
After 6
Before 7
After 7
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After 8
各ゾーンの解説は後日あらためてということで、とりあえず次々とビフォー・アフターをご覧下さい。明日はこの角を曲がってメインの庭側に進んで行きます。
狭めの庭スペースなので、しっかり組み立てないと『使えない場所』や『ただの通路』になってしまいます。
Before 9
After 9
そこで何をしたかといいますと、いつものこと。シーンをイメージしてテーマを決める。ゾーニング、導線と広さを考えながらエリアを分ける。そして立体構成で場の快適さを演出する。
Before 10
After 10
この思考といいますか手法といいますか、考えたら誰に教わったわけじゃなくて、何年も営々と設計するうちに、自然とでき上がったやり方でして、これを若い子たちに教えるんですが、なかなか上手にできません。早くこういうことがスイスイできるようになってくれると、私、楽になるんですけどねえ。まっ、愚痴っていてもしかたないし、お客さまに中途半端な提案はできませんから、今のところほとんど全てのプランの構成を私がやってます。それを妻とスタッフたちが入念に仕上げていく、家内制手工業です。
Before 11
After 11
今は普通のこととして毎日繰り返している、この設計が仕上がるまでのシステムが、何とかカタチになるまでの数年間の過程で、最も困難だったのがひとつのプランに関わるスタッフ全員が『お客さまへの思い』を共有することでした。私がプランに込める願いや仕掛けや、そういった『熱』をスタッフにも持ってもらうこと、これがなかなかすんなりいかない。いつもそうだったわけではなく、それができる子とできない子がいるのです。できない子にはいくら言葉を尽くしても理解できない、修得できない難題であるようでして・・・、まあ向き不向きってことでしょうか。これって世の中の全てのプロジェクトで起こっていることなんでしょうね。頭を抱えているチームリーダーが大勢いるんだと思います。
でも今はもう大丈夫。私が込める『熱』をさらに熱々に加熱して仕上げる技を、スタッフ全員が身につけました。そうなってから、私の設計はグングン進化するようになりまして、かつてなら実現できなかった、イメージすらできなかった庭を提供できるようになっています。妻とスタッフに感謝しています。
島 耕作さんがついに社長になられたそうで、そのことがワイドショーで取り上げられているのを見て、力石の葬儀を思い出しました。「あしたのジョー」の力石徹です。あれ以来じゃないですかね、漫画の中の人が 実在の人物扱いでワイドショーネタになったのって。『社長 島耕作』、すごいですよね、いや、すごいってのは課長から社長にまで登り詰めた島さんじゃなくて、作者の弘兼憲史さんのこと。実に連載25年目だそうです。長い長い、25年間も1人の人物像を魅力的に創造し続けることって・・・、すごいのひと言です。
Before 12
After 12
この『25年やり続ける』ということで中学2年の夏休みを思い出したので、今日はそのことを。
腎臓を悪くして一年間の運動禁止を言い渡された私は卓球部を辞めて美術部へ、その時の顧問が今井広勝先生といいまして、美術の教師であり、その時点でけっこう著名な彫塑の作家でもありました。作家年鑑みたいな本で、先生の作品(高さ30センチくらいの胸像)が270万円と書いてありました。岡本太郎みたいな、常にあっち側の世界をただよっているような雰囲気の人で、職員室ではやや変人扱いされていた感じでした。でもその先生が私に興味を持ったらしくて(何か波長が合ったのでしょう)、美術に関すること以外にも「これおもしろいよ」と、禅宗のお坊さんの本をくださったり、私のスケッチブックの1ページを「こりゃすばらしい」と言ってベリッと切り取って持っていって、後日それが教職員組合かなんかの小冊子の表紙に使われていたりしました。
Before 13
After 13
中2の夏休みに「アトリエに遊びに来なさい」と誘われて、電車で1時間かけて長岡市の先生のご自宅に。そこにあるアトリエが衝撃的で、庭とアトリエが一体になったような、粘土と油絵の具の香りと作品群で目眩がするほどのエネルギーに満ちているアトリエ、そしてそれ以上にその庭、当時、庭になんて全く興味がなかったいわふち少年でしたけど、花咲き乱れる庭がある暮らしが強烈に記憶に焼き付いています。私の家や近所では庭イコール畑という田舎の中の田舎でしたから、そこからしたら洗練された都会というイメージだった長岡市の住宅地で、その中でも先生のお宅の庭はひときわ美しく、さすがは芸術家だなあと思ったものです。私と同年代の息子さんが寛斎の作務衣を着ていたのもおどろきで(そんな中学生いませんよね)、かっこよっかた~。創造というのは学校の授業で絵を描くことではなくて、こうして生活を組み立てる時に発揮されるべきものなのだという感慨、もしかしたら私にそれを感じさせたくて招いて下さったのかもしれないなあと、後年そう思いました。
そのすばらしい庭を眺めるアトリエで、先生が大好きだと言う由紀さおりのLPを聞きつつ、豆を挽いて(生まれて初めてでした)入れて下さったコーヒーをいただきながら、「どうしたら先生みたいに絵や粘土をやりながら暮らせるようになるんでしょうか、やっぱ勉強して美大とか行かなければ無理なんでしょうか」と聞きました。するとその答えは「ただ好きなことをやっていればいい、それだけ。夢中で好きなことをやること。ただし、それを25年やり続けることだよ」。
あれから38年が過ぎました。けっこう純粋だった少年は、先生の言葉に従い、好きなことばっかりを夢中でやってきました。そして私が造園や設計にかかわるようになってからは、気が付けばもう22年。先生の言っていた25年に近付いてきました。現在の仕事や暮らしをあの日の私がどう評価するかは別として、あの言葉が頭の隅っこにこびり付いていたおかげで(せいで、かもしれませんけど)エキサイティングなここまでの道のりだったことは確かです。人生を変える今井先生との出会いであり、言葉だったのです。ですから子どもたちにもよく言います「好きなことだけやっとけ」、わたしがそれを言うと「はいはい、そゆことばっか言ってちゃダメだよ」という反応、私を反面教師にしてみなさんがんばっているようです。私としてはホントにそれでいいと思っているんですけどねえ。
各エリアを解説していきましょう。まずはメインであるウッドデッキ。
ダイニングルームの外を既存のフェンスを取って庭いっぱいに張り出しました。これで日常的に外に出る生活が始まります。段差なく屋根のない場所に行けることが生み出す広がり、快適さ、何度つくってもこの効果はすばらしくて、お客さまが最もよろこんでくださることでもあります。
ここからの見晴しがとってもよくて、こうしてデッキに出ると、今まで室内で感じていたその魅力が何倍にも感じられます。長く暮らしてきた家に新たな魅力が加えられるということ、ガーデンリフォームではこのプラスαを必ず織り込むように心がけているのです。
木工フェンスの柱の1本を高くして、毎度お馴染みのマリンライトを付けました。
この柱を高くしたのにはもうひとつ理由があります。この金具、建物側2か所と柱にフックを掛ける金具を付けて、日差しが強い日には三角形のシェードセイルを張って過ごすという仕掛けなのです。撮影までにセイルが間に合わなくて残念でしたが、まあイメージしてみて下さい、イイ感じなのです。これもプラスα。
デッキで過ごすのが最高に心地よい季節です。デッキをお持ちのみなさん、現状にプラスαすることでさらに快適な場所になるかもしれませんので、ご一考を。例えばコーナーパーゴラ、照明器具、目かくし、棚、シエスタベンチ、炉端焼きのお店みたいなバーベキュー炉などです。屋根のない部屋で楽しみまくりましょう。
小沢さんちには扱いかねて持て余してしまいそうな場所がありました。ガレージの上部で通路からそこだけが突き出ていて、困ったことにリビングから遠い位置にある。過ごす場所にするには無理があるし、わざわざここを花いっぱいにしても普段の生活導線からはそこを眺めることがない。で、考え出したのが『土づくりの場所』です。幸い宅地が高くてガレージ上部のスラブの上に数十センチ土が乗っかっていたのでそういう設定が可能だったのです。「台所から出た生ゴミと庭から出る雑草と枯れ葉をここで堆肥にして、それを使って花と野菜を育てて下さい」ということで、こうなりました。
ここでできた良質の自家製堆肥でハーブや野菜や草花を育てるエリアが2か所、まずは玄関脇からデッキに向かうアプローチです。レンガ通路以外の場所がガ-デニングスペースで、ただの通路っぽくならないためと、室内からの見え方や日よけ効果を考えて、パーゴラと木製パネルを設置してあります。これらにはゴーヤなどのつる性植物をからめていってもらいたいと思っています。
そしてもう1か所はデッキの向こう側で、ここは日当たり風通し抜群なので野菜を中心に楽しんでいただく場所、さっそくたくさんの食料が植えられていて、それはまた後日ご覧いただきます。
自家製堆肥でガ-デニングされているお宅の庭は入ってすぐにわかります。土のいい香りがするのと、とにかく花や野菜が元気で田舎の庭を思い出すのです。安心で健康な土づくり、そこに意識が行く生活、ロハスです。
その野菜コーナーの奥、突き当たりに屋根を設置。勝手口から出て洗濯物を干したいという奥様のご要望によるものです。ウォーキングやテニスなど、活動的にお出かけする奥様、これでひとつ気が楽になりました。
明日は樹木を新たに植えた樹木をご覧いただきます。
今日は小沢さんちの樹木を。
玄関脇から庭へと向かうアプローチ、もともと既存のフェンスにラティスをくくり付けてありましたが、それも朽ちてしまったので今回撤去しました。で、殺風景になったので、通路脇にブルーエンジェルを3本植えました。これなら年月が経っても葉張りが出ないので通り歩きのじゃまにならないのと、雰囲気が通路からガーデニングゾーンに変わります。ただし、西陽しか当たらない場所なので、花いっぱいにするのは難しいため、植える下草は這うタイプのコニファーを中心にしました。
次はレモンです。この場所はリビングの出窓の外で、室内から手が届きそうな位置です。そこで常緑樹が風にそよいだり、雨で光ったりすることをねらったのです。というのは、こっち方向の背後には隣りの公園の樹木と、そのまた先には森が見える、その緑をすべて我が家のものにしようという試みなのです。これ『借景』ですね。ただ森が見えるのでは借景にはならなくて、風景です。その風景を拝借するために手前に木を植えるという手法です。リビングの居心地がグンとアップします。
そのレモン、実が1個残っているままで次の花がたくさん付いていました。夏にはミニチュアみたいなレモンができて、それが立派に育っていく様子をリビングから眺めて暮らす、いいですよねそういうの。
最後に、デッキ脇にエレガンテシマ。これも公園方向、つまりレモンと同じ役割で、デッキからの景色をデッキに取り込む借景効果が生まれます。
小沢さんちの草花と野菜をご覧いただきながら。
何日か前に弘兼憲史のことを書きました、社長島耕作。実は最近うちで妻と私のマイブームになっているのが『黄昏流星群』、弘兼憲史のマンガです。わたしが何となく立ちよった古本屋で立ち読みしてはまってしまい、全20数刊あるようですけどその店では歯抜け状態といいますか、数冊しか置いていなかったのでそれを買って帰ったところ、妻カオリがおもしろがって読んでいるのを発見。ふだん読み物に関して全く趣味が合わない夫婦なものですから私も楽しくなって(共通の情報や刺激を受けるっていいことですよね)、違う古本屋で読んでない刊を見つけては買って帰るようになったのです。
最近では妻から次はまだかと催促が入るようになってまして、といっても、その内容について二人で話したりは一切しません。感想を共有しようとする行為は『違いを確認する』行為だということをお互いに感じているからでしょう、どちらからもそういう会話は始まらないのです。それでも何かお互いに共感できているような気がしている。
この『黄昏流星群』、読んだこと無い方がほとんどだと思いますので軽く説明しますと、黄昏、つまり人生の黄昏時をむかえた中高年が繰り広げる短編ドラマ集です。それが流星群、流れ星、きらめきながら落ちてゆく人生のドラマを描いています。まったく救いようのない不条理な結末や、ほっと心が温かくなる終わり方や、いろいろです。
そこに登場する人たちとオーバーラップする歳になった我が夫婦(50才直前)ですので、その内容が興味深く、時には深く突き刺さってくるのです。『黄昏流星群』、たまには漫画もいいもんですよ。
昨日の『黄昏流星群』の続きです。
中高年を扱ったヒューマンドラマですから、話の中心には熟年夫婦や夫婦じゃない熟年のカップルがいます。その人たちの人生の一場面、長い一生のひとかけらを描いていて、古い話ですけど村上龍の『限りなく透明に近いブルー』のラストシーンで路上に光っているガラスのかけらみたいな、他の人にはまったく意識に入らないゴミくずが、それが朝日に輝く一瞬をとらえている、そんな話が続きます。「人間っていいもんだなあ」とか、「人間って愚かなもんだなあ」という感慨が入り交じってわき上がってきます。
それを読んでいるせいでしょうか、仕事をしていて、夫婦や家族についてのことがふだん以上に引っかかる、気になる場面が多くて。例えば家族の中でのお父さんの位置や役割りのことです。
30代の頃なら『父権復活』、お父さんも頑張っているんだから家族は茶の間の父の席に座るな!となっていたと思うのですが、今は違います。父親の役を果たさない(果たせない)父親が目についてしかたがない。
「これじゃあ子どもはまともに育つはずがない」と余計なお世話を言いたくなったり(言いませんけど)、「奥さんとしても打つ手がないんだろうなあ」とご夫婦の先行きを案じたり(何も言いませんけど)してしまいます。どういうお父さんがそうなのかというと・・・、よそ様のことなのであまり突っ込んではいけない話題な気がしますので躊躇してしまいますが・・・、昔、離婚の危機にあったご夫婦を見て妻がズバリ言ったことがありました、「ご主人がオコチャマ過ぎるから、家族の中に父親がいないのよ。父親役をやっている大きいだだっ子がいるだけだから、奥さんがそれに気付いていれば何とかなるかもしれないけど、やっかいなのはそのだだっ子が給料もらってきたりお酒飲んだり、そういう人に限って理屈っぽい。一回放り出さないとわかんないんだよ、大きいだだっ子は」当然私のことを言われているような部分を感じますので、その時はシュンとなったものでした。
世のお父さん方、大きいだだっ子やってたらいつかは放り出されますよ。熟年離婚ってそういうことですよね、きっと。子どもが自立して、男が稼いでこなくなった時点で必要が無くなる、それどころか今までひたすら我慢してきた奥さんの恨みつらみを一気に仕返しされるのですから、だだっ子のその後の人生は悲惨を極めます。
まっ、とにかく夫婦仲良く、喧嘩もしながら仲良くやっていきましょうよ。特にご主人方、奥さんのいう愚痴や不満や不安を理屈ではねのけることは危険です。奥さんをこちらの理屈で言い負かしてしまったら、もう奥さんはあなたに何も言わなくなってしまいます。それは従順な妻になったのではなくて、あなたに対して人生を掛けた戦いを決意しているということなのかもしれませんから。
小沢昭一的こころ風に言うと「げに恐ろしきは従順な妻、くわばらくわばら」。「あしたは『男の脳みそはふたつしかない』のこころだ~」。
お客さまからお聞きしたことです。
「男の脳みそは二つしかないが、女は五つも六つもある」
細木和子さんが言っていたことだそうでして、つまり男というのは同時にいくつものことを考える能力が無いということ。それに対して女性は複数の異なったことを複合的に考えられるというのです。妻と二人、その話にものすごく納得。というのも、私と妻のトラブルの大半はそれだからなのです。その説明で合点がいく。
私は仕事のこと、特に設計に入ると他のことは一切頭から消えてしまいます。家にいても頭が仕事モードになっていると家事や家族のことは優先順位でいうと遥か下の方にあって、というか、ほとんど意識の中に無くて、周りから見るとぶつぶつ言いながら自分の世界を漂っている変な人になっているようです。そういうときでも妻はいろんなことを均等に捉えて、テキパキとそれをこなしていくし、当然私にも役割分担を求めてきます。まあ役割分担というのは主に愚痴の聞き役なんですけど。次々と私にああだこうだと話しかけてきますが、私の脳みそは仕事モードの時には仕事から、料理をしている時には料理から1ミリも動かないので、返事や相づちがいいかげんになっていって、ついには「うるさいよ!」と言って話を打ち切ってしまいます。それでも妻は「何で私だけこんなに大変な思いしなきゃなんないの」と愚痴攻撃の手を緩めない、で、喧嘩になってしまうのです。
「男の脳みそは・・・」このことを教えて下さったお客さま(奥様)曰く、「男の人は不器用にできていてかわいそうなんだから、上手に面倒見てあげなきゃ」、そのお言葉に夫婦そろって大きくうなずいていたのでした。
脳生理学的にも、女性は左右の脳を常にバランス良く働かせているのに対して、男は極端にどちらかに片寄っているそうでして、ちなみに私などは明かに右脳で生きていますし、技術系の仕事をされているご主人方は左脳、例えば庭の話でも左脳で考えますから、ご夫婦で意見が合わなくなることもしばしばなのです。
不器用な脳構造の男から世の女性の皆様に(これもその奥様との会話で出た話なんですが)、男は女性のひと言でものすごい力を発揮します。そのひと言とは「あなたはすばらしい才能を持っているわ、私にはわかるの」です。ボクシングのセコンドが「おまえはチャンピオンなんだ!」と叫ぶのと同じ、傷だらけで意識がもうろうとしていても、そのひとことで信じられないようなパワーが発揮できる、そういうものなのです。男はみんなロッキー・バルボアなのですよ。もしご主人が私のようにわからずやのだだっ子だった場合、そのことを嘆くより、ロッキーのセコンドをやってみるのもいいかもしれません。イタリアの種馬が世界チャンピオンになる可能性がありますよ。
数日間話題が庭から離れていました。次々いろんなご夫婦、ご家族と出会って興味深い話をお聞きしつつわが夫婦を見つめ直す(煮詰め直す)という毎日なので、この手の話題が尽きなくて・・・。
さっ、話を小沢さんちの庭に戻しましょう。
庭の一番奥のガーデニングスペースは、野菜を中心に楽しめるように土壌改良してあります。期待通りにそこに植わっていたのは食料のオンパレードで、今年の小沢さんちの自給率は相当高くなることでしょう。
庭イコール畑ってのが我が原風景です。土をつくってその土から育った葉っぱを食べる、遥か昔から数十年前までの日本では、それはごく普通のことでした。100年前の日本、私のじいさんが生まれた頃の日本では人口の95%が農業(半農を含む)をやっていたそうで、そう考えると土に触れない生活はものすごく不自然なこと。歴史的視点で考えれば自家製野菜をつくらない、それを食べない日本人は新人類どころか宇宙人的なことであるともいえます。日本人は日本人らしく、土を耕して、草引きしながら暮らすべきなのではないか、そうじゃなくなったことのひずみが連日起こっている異常な事件の遠因ではないかと、時々そう思っています。土つくって葉っぱ食べてたらいろんなバランスが整うのです、たぶん。米と味噌と野菜と干物喰って、まめに働いて、長寿で笑顔で、NHKの『家族に乾杯』に出てくる人たちの生活、いいですよねえ。そういう生活を組み立てる時に、庭ってけっこう重要ですよ。
昨日の『日本人は葉っぱを食べる』で書き忘れたこと、ウッドチップの効用について。
野菜用の土壌改良をした後で全面的にウッドチップ(針葉樹をチップにしたもの)を敷き込んであります。それをどけながら野菜や草花を植えていくんですが、これがやってみると非常に具合がいい。チップの第一の目的は雑草を押さえることで、ですから庭の中の何も植えていない部分に敷くという使い方が一般的です。ですが、今回のように野菜のまわりにマルチ(土を被うビニール)を敷くようにチップを施すと、泥はねがなくて(葉に泥が付くのは病気のもと)、それと多分マルチと同じく土を温める効果もあるのでしょう、野菜の生長がいい気がします。
収穫が終わって土を耕し施肥をするときにはかき集める必要がありますけど、雑草取りの手間を考えればたいしたことではありません。ウッドチップ、家庭菜園に使ってみてください。
では野菜以外の草花をご覧ください。
野菜、ハーブ、季節の花、日常になくても何ともないものですが、でもあった方がいい、これは庭屋の実感です。なくても何ともないのにあった方がいい、そういう要素が多いほど生活は豊かに力強く整ってくるのだと思うのです。
庭のある暮らしの理想型、土をつくって野菜を育てて、いつも花が咲いていて笑顔が絶えない日々、今回の小沢さんちはまさにそういうイメージです。このガーデンリフォームをきっかけに、一気にそういう暮らしを実現させるパワー(奥様からあふれています)と深み(ご主人からにじみでています)をお持ちなので、半年後、1年後の充実ぶりが目にうかびます。
奥様のパワーとご主人の深み、これが優れた熟年夫婦の条件だということを、連日のお客さまとの打ち合わせで感じることがしばしばでして、我が夫婦もそこを目指したいというのが妻カオリとの共通の思い。まだまだ道のり遥かで、時には霧立ちこめて五里霧中でただただ足下を見つめるばかりということもありますが、目指す方向、たどり着きたい世界のイメージがハッキリしていれば、妻共々少しづつでもそっちに近付けるのではないかと。何か大げさな話ですけど、連日のひどい事件を見ていて思うのです、腹据えて歩いていないととんでもないことに巻き込まれるって。意識して家族を大事に、日々の暮らしを充実させながら歩いていきましょう。
小沢さんちの最終日です。
リビングから見えるデッキの様子、外にひと部屋できました。
奥様の明るいパワーとご主人の温和な哲学者というような感じが印象的だった小沢さんち、今回のリフォームで生活エリアが外に広がったので、もしかしたら忙しさが増すことになったかもしれませんが、その分土つくって、野菜育てて、花いっぱいの暮らしを楽しみまくっていただけると思っています。
今回もまた、お客さまから良質の波動をいただきました。感謝です。
つくづく思うんです、幸せになる能力ってのがあって、それが高い分、ちゃんと幸せな日々が創造、構築されている。誰もが身に付けたいこの幸せになる能力を学校では(そういう学科もないし)一切教えてくれない。そのあたりに人間社会のおもしろさと複雑さ、妙味があるのでしょう。学校で教えてくれない、成績評価に関係ない能力。学生時代成績優秀でエリート官僚や一流企業にお勤めでも、奥さんひとりを笑顔でいさせることすらできないというご主人が山のようにいます。いつもイライラしていて子どもから笑顔を奪い去るためだけに暮らしているようなおかあさんも毎日見かけます。この誰もが欲しいはずなのにそれの習得方法を誰も教えてくれない『幸せになる能力』、どうですか、欲しいでしょ、私は欲しい。で、私がやっていることは、幸せな人たちの真似をするということです。服装や食べ物や表情、そして物の考え方、物事の捉え方を真似する。私がやる真似ですから所詮猿真似レベルですけど、思考の中に「○○さんならこの局面でどう考えるかな」という要素があれば、数ミリづつでもそっち側に近付けるのではないかと思っているのです。気をつけないと逆方向(不幸)への引っぱりは強烈なので、それを防ぐ意味でも「○○さんなら・・・」というふうに考える。ありがたいことに私のまわりには○○さんがあふれています。次々すばらしい○○さんに出会います。それはお客様方。今回の小沢さんもそうですし、清水さんも鈴木さんも斉藤さんも富岡さんも・・・、みなさん本当にありがとうございます。