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石張りのテラス-天野邸
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石張りのテラス-天野邸

樹木が見える高さのレンガの壁と手前に花壇を作ることで、木々と草花を近くに感じながらテラスですごすことができます。
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大理石で敷きつめたメインテラス。木陰で食事やお茶が楽しめます。
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何となく( 天野邸 1)

さあ、新シリーズ!今日からご紹介する天野さんちの庭は、「新たな一歩を踏み出すためのガーデンリフォーム」です。2年前に亡くなったお父様は植物学者だったそうです。うどん粉病の研究者。植物学者ですから庭は珍しい植物を含めて、多くの木や草花で覆い尽くされていました。

亡くなられた後、奥様としては、その庭をどうにかしたいと思いつつも「お父さんが楽しんでいた庭だから」と、どこまで手をかけていいのか迷い、造園業者に相談して、植物を少しだけ整理して家側に砂利のスペースを確保したのだそうです。これです。

ビフォー2ビフォー7

庭がスッキリとしました。・・・が、奥様は、何となく「もっと変えてもいいのかなあ。お父さんも3回忌が済んだし、今度は私たちが庭を楽しむことが大切な気がする」と。
ただ、その気持はまだ何となくで、それ以上にはふくらまなかったようです。「何となく」のまま。亡くなった家族の遺品を整理するのってむずかしいですよね。何年経ってもそのままというお宅もあります。わかりますよねその気持。この庭はお父様の遺品みたいなものなのです。

数ヶ月が過ぎて、奥様の気持の中からその「何となく」は消えませんでした。
これなんですよこれ!消えることのない「何となく」。
ぼくはこの感じがとても好きです。消えない「何となく」が、実はぼくにとってとても大事な感覚なのです。

書店に並んでいる夢実現のテキスト(自己啓発の本とか)には、「ぼくは将来プロゴルファーになる」、「5年後までに家を建てる」、そういうはっきりとした目標を掲げて、そこに至る計画を立てて、真っすぐにその目標に向かっていくということが重要であると書いてありますよね。渡邉美樹さんの「夢に日付を」とか。
ぼくはそれに、ちょっとだけ違和感があります。美樹さんは大尊敬していますけど、ぼくはもっと行き当たりばったりでもいいんじゃないかなあって。その方がぼくにはエキサイティングに感じるのです。

ぼくの座右の銘は「すべてなりゆき」です、なんて、半分ふざけて言っていた時期がありました。でもそれって、けっこう大まじめにそう思っていることなんですね。大好きなエルビス・プレスリーも、ジョン・レノンも、今大人気の坂本龍馬も、なりゆきの人生ですからね。自分に正直に、自分らしく行きているうちに時代に引っ張り上げられて、本人も思ってもいなかったような大きな事を成すような、そういう人生です。そういうのがいいんです。
ただし、これはぼくなりの大発見だったんですけど、そうやってなりゆきで生きて、しかもエキサイティングに楽しく充実して生きるためには、コツがあります。

「何となく」を、やわらかく思い続けること。

これまでこのコツで、ずいぶんといろんなことが実現しました。握りこぶしで「◯◯するぞ!」じゃなくて、やわらかく思い続けていたことが、気がついたらすでに実現していたという経験です。仕事も、店も、家も、妻と子供たちも。身の回りのすべてがその「何となく」によって実現したのです。楽しいんですよこれって。「何となく」を、やわらかく思い続けること。

この「何となく力」については、長くなるのでまた今度にして。
奥様の中の消えない「何となく」を感じた時点で、ぼくは「いい庭ができる」と確信しました。その「何となく」と、ぼくが大事にしている「何となく」とが感じが似ていたからです。

明日、ぼくが奥様に提案したプランをご覧いただきます。

そういえば、庭を設計すること自体「何となく」をカタチにする作業なんですよね。だから得意分野なのです。ぼくは「何となく」を実現させるスペシャリスト。

こうして来る日も来る日も庭を設計している今の仕事も、小学校の卒業文集に「将来、絵を描いて暮らしていく人になりたい」と書いた、その「何となく」が消えなかった結果なんだと思います。
「何となく」をやわらかく思い続けることで、人生は思い通りになる、・・・かもしれないなあって、やわらかくそう思い続けています。

ぼくの方程式( 天野邸 2)

もう一度ビフォーをご覧ください。

ビフォー2ビフォー7

この庭をどうリフォームするか。
奥様の中で消えない「何となく」を、引き出し、ぼくなりに思いっきりカタチにしてみました。Plan A

天野様A 

Plan B

天野様B

既存の樹木をできるだけ残しながら、それを楽しみつつ庭で過ごせるようにプランしました。
他には、外に出やすくすること。草花の手入れが楽になる(楽しくなる)ように。部屋から庭へ誘うような景色にすること。この2プランをご覧いただいて、奥様は Plan B を選択。それをベースに打ち合わせをして細部を変更したのが、次の Plan C です。

天野様C
今回の設計には、少々力み過ぎなくらい力が入りました。
まずお父様が植物学者だったということで、少し緊張しました。もしご存命だったら気に入って下さったであろう庭にしたいなあと。
それと昨日の話、奥様の「何となく」です。「何となく」を、柔らかく思い続けることで、その「何となく」は実現する というぼくの方程式を実証してみせたかったんですね、ぼく自身に。奥様と、さらに検討を重ねてでき上がった最終プランを、明日ご覧いただきます。

Plan D( 天野邸 3)

夢を実現する方法は、その夢を熱く楽しく語り続けること。これは北原照久さんの言葉です。
その熱く語る夢の周辺には、いくつもの、まだ夢(目標)に至らない、シルエットが曖昧なままの「何となく」があります。
その「何となく」を「何となく」のままで大切に懐に入れて持ち歩くことで 、気がついたときにはそれが現実のことになっているという不思議。
ぼくも北原さんに習って、夢を熱く楽しく語りまくる一方で、この懐に入れた「何となく」を捨てずに持ち歩くことの楽しさを味わいながら暮らしています。「何となく」が趣味と言ってもいい。楽しいんだなあこれが!

では、奥様の「何となく」がカタチになった Plan D をご覧ください。

天野様D 

左側から3分割します。まず駐車場から庭への導入を「庭への期待感」がふくらむように、来訪者を庭へと誘うように整備して、階段でテラスに上がります。そこはリビングの外。
リビングからの景色もまた、室内から庭へと誘うように、レンガでひとつの風景をつくりました。部屋との段差をなくして、いつもきれいに花を咲かせておきたくなる花壇と、ちょっと出てお茶をしたくなるように椅子とテーブルを置いて。
背後の樹木を残したままでそういう要素をぎゅっと詰め込んだ場所です。

天野様D−1

リビング前から出て右に行くと、メインのセンターテラスがあります。
周囲の雑木林の空気を感じながら、日だまりで過ごす極上の「外の部屋」です。
レンガ塀の高さを、ベンチに腰掛けたときに木々がちょうどいい具合に見えるように設定しました。

天野様D−2

さらに右側に階段を下りて行くと、縁側の前からテラスの外周を歩くいてまたテラスまで回遊できるように、乱形の自然石で通路を設定。ここがガーデニングエリアです。
通路をハッキリさせて、「通路以外が植える場所」という作り方です。

天野様D−3
この3つのゾーンが組み合わさった構成が、奥様の「何となく」という曖昧なイメージのシルエットを、丹念に描き込んでいってできあがった庭。あとは実際につくるだけです。明日、ビフォー・アフターをご覧いただきます。いつもにも増して、劇的ですよ!

どうです、この変貌!( 天野邸 4)

では、ズラッとビフォー・アフターです。駐車場裏の庭の入り口から。

Before 1
ビフォー1After 1
アフター1

Before 2
ビフォー2

After 2
アフター2

どうですこの変貌ぶり!

Before 3
ビフォー3After 3
アフター3

いいでしょう!入り口側へ振り返ります。

Before 4
ビフォー4After 4
アフター4

Before 5
ビフォー5After 5
アフター5

また振り返って、先に進みます。

Before 6
ビフォー6After 6
アフター6

さらに進んで振り返ります。

Before 7
ビフォー7After 7
アフター7

最後はリビングからの眺めです。

Before 8
ビフォー8After 8
アフター8

おっと、こうして並べて気がつきました。センターテラスが写っていない。
これがビフォー・アフターの難しいところでして、着工前に完成時をイメージしてアングルを決めて撮影しておくのですが、時々今回のように大事なカットを撮り忘れてしまいます。
その分、後日ジックリと、メインのセンターテラスをご覧いただきます。こうして写真を並べて時間をワープさせるのは、何度やっても楽しくエキサイティングな作業です。
最後のカット、リビングからの景色だけとっても、今回のリフォームが大成功だったという感慨があります。
これまでただ眺めていた庭。眺めるというよりもリビングの外に見えていた場所という感じだったかもしれません。それが、アフターではリビングが庭へと広がって、庭に出てみたい、そこで過ごしたい、というイメージになってますよね。

ビフォーからアフターへの変身は、造形的なことだけではありません。
何度もビフォー・アフターを繰り返していると、はっきりと感じます。庭が喜んでいるのです。

庭に人格や感情があるはずないので、その庭が喜んでいるってのはおかしなことかもしれませんが、それでもそう感じます。
もう一度見てください。アフターはどれも、にっこり笑ってピースサインしている記念写真のようです。

ゆっくりゆっくり( 天野邸 5)

歩きながら、庭の全体像をご覧いただきます。
今日は入り口からリビング前のテラス、そして昨日うまく写っていなかったセンターテラスまで行きます。実際にこの写真の庭に入って、ゆっくりとそこを歩いているイメージで進んでみて下さい。

DSC_0019

庭入り口の角を曲がると、リビング前のテラスが見えます。ゆっくりゆっくり。

DSC_0020

階段を上がります。ゆっくりゆっくり。

DSC_0021

リビング前に立つと、その向こうのセンターテラスが見えます。ゆっくりゆっくり。

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センターテラスに立って、リビング側を振り返ります。ゆっくりゆっくり。

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また向き直って。これが昨日写っていなかったセンターテラスです。ゆっくりゆっくり。

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その向こうの濡れ縁の前に、ガーデニングエリアが見えます。ゆっくりゆっくり。

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濡れ縁の前まで行って振り返ります。ゆっくりゆっくり。

DSC_0031

庭に入ったら、ゆっくりゆっくり。忙しい人はなおさら、ゆっくりと時間を過ごしていただきたい。最近強くそう思うのです。続きはまた明日。

朝晩、愛犬ノアの散歩係をしています。時々「仕事が山積みでこんなに忙しいのに、犬と散歩してていいのかなあ」と。そんな気持になると歩くテンポが速くなって、小犬のノアは駆け足になるんですね。その様子を見てると何だかかわいそうになって速度を落とします。

もっとのんびりと、ゆったりした気分で、ゆっくりゆっくり。
最近ではノアの方が早く進みたくなって(公園に行って、一緒に思いっきり走り回るのが楽しみらしいのです)リードをひっぱるようになったので「ゆっくり、もっとゆっくり」と話しかけながら歩いています。高2の娘以上の知能を持つノアは「ゆっくり」が理解できるようになって(娘はぼくの指示など理解できないようです。トホホです)、そう言うと、リードをたるませながら、ピタッと脇を歩いてくれます。

忙しいのに犬の散歩は・・・というのは、忙しいのに庭のことなんて・・・と同じことなんですよね。犬の散歩を楽しめないほどの状態でいくら忙しく働いたって、きっと結果は良くないに違いありません。庭と同じ。仕事ができる人ほど、庭を楽しんでいることを、ぼくは実感しています。

ノアがわが家に来て3ヶ月が経過しました。散歩も躾も、大変と言えば大変ですが、その何倍も楽しい時間があり、いろんなことを教わりました。よくノアに「ありがとね」と言うんですが、何となくわかったような感じで首を傾げてこちらを見上げています。

今夜も帰ったら散歩です。ゆっくり、ゆっくり。

今日も、ゆっくりゆっくりと( 天野邸 6)

ゆっくりゆっくり。昨日の続きです。ゆっくりゆっくり。

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庭の一番奥まで行って振り返りました。
こんどは縁側の前の通路を進みます。ゆっくりゆっくり。

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ゆっくりゆっくり。

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突き当たりを左に曲がります。ゆっくりゆっくり。

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前方のアーチに向かって、ゆっくりゆっくり。

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アーチも向こうの階段を上がるとテラスです。ゆっくりゆっくり。

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テラスに入って左側がセンターテラス。

DSC_0046

右側がリビング前のテラスです。

DSC_0049

昨日今日と、ゆっくりゆっくり歩いていただきました。
イマジネーションを働かせて、ゆっくりゆっくり歩きながらご覧になった方には、この庭の気持よさ、楽しさを感じていただけたのではないかと思います。暖かい陽射しやさわやかな空気、鳥の声まで。忙しくて駆け足で通り抜けてしまった方は、昨日のスタート地点まで戻って、もう一度、ゆっくりゆっくり歩いてみてください。

「忙」は心を亡くすと書きます。「忙しい」を言い訳にしたとたんに、心が消えてしまうのです。
でも、実際忙しいですよね毎日。だから「忙しい」をひらがなで「いそがしい」にしましょう。口をついて「忙しい」と言ってしまったときに、すぐに心の中で無変換スイッチを押して「いそがしい」にしましょう。おまじないみたいなことです。

「忙中閑あり」。忙しい人ほど、静寂や、風の動きや、陽射しのありがたさなんかを感じられるものだと思います。「忙しい人ほど本を読む」とも言いますし。
「忙しい」を「いそがしい」に変えるおまじないで、心を亡くさないように過ごしたいものです。
だから、たまには庭に出て、ゆっくりゆっくり。犬の散歩もゆっくりゆっくり。子育ても、ゆっくりゆっくり。

そうそう子育てです。お子さんが小さいうちは、お母さん(お父さんも)の口癖で「ダメ!」と「早く!」をいち日300回は言いますよね。うちもそうでした。でもねえ、子供がでかくなってみると、「ダメ!」と「早く!」は、いち日3回くらいでよかったかなあって思いますよ。
逆に300回、「いいねえ!」とか「上手だねえ!」、そして「ゆっくりゆっくり」って言いながら育てるべきだった気がして・・・。
まあ、今からでも遅くないか。やってみよ!

リビング前のテラス( 天野邸 7)

今日からエリアごとに解説していきます。
では、リビング前のテラスから。

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このエリアの狙いは3つありました。

  1. リビングを外に広げる(庭とリビングをつなぐ)
  2. 庭への誘い(リビングからの風景で誘う)
  3. テラスに出て過ごす

室内からの眺めはこうです。

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ビフォーをもう一度。

ビフォー8

ここから庭へ出ることは、ほとんどなかったそうです。
それが、こうなった。

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3つの狙いは、うかいこと達成できました。ポイントは、庭を持ち上げて、部屋の床面と近づけたことと、

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背景にレンガで花壇と塀をつくったことです。

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いつも見える位置にある花壇は、誰だってきれいに花を咲かせておきたいものですから、自然と足がそこに向きます。
塀は、その背後の樹木を楽しみつつその塀の位置までで部屋が伸びたような印象にしたくて、高さをどう設定するかを入念に打ち合わせました。

ブロック塀の中央のスリットとアイアンの飾りは、風景に中心を出すためのものです。

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このスリットの左右に、対象形で照明器具を配することで、

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リビングからの景色がひとつの壁面全体に描かれた絵のように感じられるようになるのです。

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アーッ理屈っぽい!
でもねえ、そういうことなんですよ。そうやって、理屈っぽく組み立てるのがぼくのスタイル。
今回の設計は、奥様の「何となく」を具現化してゆく作業でしたが、設計には「何となく」を極力排除する必要があります。「何となく」で設計したら「何となく」をカタチにすることはできない。
しかーし・・・仕上がりに理屈っぽさが出たら、これまたいい感じにはなりません。理詰めで組み立てて、そして「何となく」で仕上げをする、そんな感じかな。

センターテラス/夜の庭は宇宙船( 天野邸 8)

昨日のリビング前のテラスに続いて、今日はそこからつながるメインの場所、センターテラスです。

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背景の木を残しながら大型のファニチャーをゆったりと置ける広さを確保しました。

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外周はレンガ塀を低めにまわして、周辺の木々を感じながら過ごせる「スペシャルな外の部屋」というイメージで。

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床面の高さはリビング前と同じく持ち上げて、室内の床に近づけてあるので、ガーデニングエリアへは階段で下りて行きます。

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レンガ塀を背中にして、いつものシエスタベンチ。

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その脇からも階段で下りて行けます。照明器具はアイアンウッドで柱を立てて取り付けました。

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そして演出用のフロアーライトをベンチの中央と右側の床面に配置。

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で、夕方、照明が灯るとこうなります!

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いい感じでしょう!さらに暗くなると、

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!!!いいでしょう、この感じ。夜の様子は後日じっくりとご覧いただきます。グッと来ますよ。

お客様と庭のことを話していると、まだまだ「夜の庭」は考えたことがないとおっしゃる方が多いです。ぼくはもったいないなあって思うんですね。
庭は夜になると、昼とは別世界になります。しかもそこ「夜の庭」は、情感あふれる特別席なのです。

夜暗くなってから、屋外で座って時を過ごすって、考えたらそうそうあることではありませんよね。旅行先とか、オープンエアのレストランなどの非日常的な特別な場所でしか、そういう時間は過ごさないかもしれません。でも、よーく考えてみると、昔はよく暗くなってから外で過ごしていた気がします。お祭りの夜に神社の境内でとか、家族で縁側からお月見とか。

夜の庭・・・。夜になると、辺りの余計な物が見えなくなって、自分と相手と夜空だけになります。ふたりで庭に居たとしたら、そのふたりが宇宙とつながるような、ふたりにとっての宇宙船のようなスペシャル感が生まれるのです。
どうですかね、その宇宙船がわが家にあるとしたら。ご主人と(奥様と)、毎晩その宇宙船に乗って、ワインを飲みながら語り合うなんてのは。
「今さらそんなこと照れちゃってムリ!」という方も多いとは思いますけど、でもねえ、うちのお客樣方はそういうタイプが多いのです。照れずに、連れ合いとワインで語り合えるタイプ。
いいじゃないですか、誰も見てないんだし。キャンドル灯して。そんな時間を日常的に持てる夫婦だったら、きっと、この先何が起ころうとも大丈夫です。

夜の庭は宇宙船

天野さんちの庭を撮影しながらひらめいて、手帳にメモったフレーズでした。

ガーデニングエリア/乱形自然石( 天野邸 9)

一昨日のセンターテラス、よかったでしょう!
自分でも「ここで暮らしたいなあ」って思う場所でした。今日は階段を下りたその先から、ぐるっとテラスを回り込む導線の「ガーデニングエリア」をご覧いただきます。

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リフォーム前は通路らしい通路がなく、全体に雑然としていて、雑草取りが大変でした。
そういう場合は歩く場所と植える場所をはっきりと分けることが大事なのです。歩く場所の材料として選択したのはブラジル産の乱形自然石です。
ピンクとホワイトを混ぜて使いました。
なぜ乱形なのかというと、四角い石材よりも自然な雰囲気で使えるからです。四角い物を並べると方向に規則性が出ますから。今回の場合はそうじゃない方がいいという判断です。

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もともと何となく歩いていた踏み跡に添って、規則性を持たせないように石を敷いていくことで、足下を気にしながら、ゆっくりと歩を進める園路ができあがります。

 

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ガーデニングエリアの中央には、テラスで使ったのと同じレンガで台をつくってライトを設置。これで夜、テラスで過ごすときに、周囲の草花を感じられるようになります。

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極力雑草取りを楽にするために、土が見えている部分にはウッドチップを敷き詰めました。

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園路は雑木林を抜けて、センターテラスへとつながっています。

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このように回遊できることが、庭を隅々まで楽しむために有効な導線設定です。乱形の石の並べ方は、その職人さんの腕と個性がはっきりと出ます。こうして写真を見ていると、「腕上げたなあ」って。
うちの職人さんたちはみんな、腕も人柄も上の上です。それでもこの乱形石の扱いはなかなか難しくて、以前は何度も手直ししました。
うん、これなら上出来!理にかなっている仕上がりです。
ぼくのわがままな設計を、熱心に丹念に施工してくれる職人さんたちに、感謝です。

結界( 天野邸 10)

今日は天野さんちに植えた樹木です。もともと多くの木々があって、それを極力残しながらの設計でしたので、今回植え足したのは2本だけです。

ブルーエンジェル
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庭の入り口、テラスに上がる階段の脇に植えたブルーエンジェルは、「ここから庭が始まりますよ」ということをい柔らかく意識させる、神社の鳥居のような意味合いがあります。
同時に、テラス側から見ると、「この木までの空間が過ごす場所ですよ」と感じさせます。こういう使い方を「結界」世界を結ぶという言い方をします。場所を区分けしつつその分けた世界を結ぶ。仕切り、パーテーションではなく「結界」。いい言葉ですね。

もう一本はミモザです。これは奥様のリクエストで植えました。

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位置はふたつのテラスを通り抜けた庭の突き当たりです。
これもまた「結界」。天野さんちとお隣さんの庭を別けつつ結ぶのです。

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この木が盛大に茂って、黄色い噴水のように花が咲いたら、お隣さんも春爛漫を楽しんでくれるんじゃないかなあ。世界を別けつつ結ぶ「結界」という概念は、日本人的な、とても豊かな言い方なのです。

ヨーロッパには、この別けて結ぶという概念はありません。城壁の文化なんですね。簡単には乗り越えられない高い壁や槍を並べたようなデザインのフェンスで居場所を囲います。他者、他部族、異文化への拒否の姿勢を崩すことなく、城壁の中での平和を維持するという暮しかたです。

陸続きの国境を持たない、島国である日本では「和をもって尊しとなす」です。極東にある小さな島の島民が、みんなで仲良く暮らしていきましょうというのがスタンダード。
共存共栄、持ちつ持たれつ、笑顔で挨拶をかわしながらそういう気持で生きていける「日本」という、世界的にみたら特殊な環境の国に生まれてきたことって、考えたらものすごくラッキーな気がします。季節はあるし、自然は豊かだし、水はきれいだし。

コリウス( 天野邸 11)

工事が完了してから撮影にうかがうまでに、2ヶ月ほど時間がありました。その間に劇的に育った植物が、鉢植えのコリウスでした。

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見事でしょう!
鉢が見えないほどに成長して、テラスをゴージャスに彩っていました。

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ガーデニングエリアにもコリウスが茂っていたので、よっぽど気に入ってるんだなあと思いお聞きすると、そういうことではなくて、コリウスの鉢植えにワンちゃんがぶつかって枝が折れてしまって、その折れた枝を挿し木にして植えたらどんどん増えていったのだそうです。

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折れた枝をペットボトルにさして置いとくと、ご覧のように根が出て、それを地に植えると簡単に根付くそうです。

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折れた枝を挿し木するという、奥様の優しい気持に応えるように、元気に根を出すコリウス。うれしい現象でした。
気持が優しい人の庭では植物は必ず元気です。植物の生長には、水と光と養分と空気と、そして優しさが必要なのです。
優しさを数値化することはできませんけど、庭を見ると、ぼくにはその度合いはわかります。
明日はコリウスの枝を折ったワンちゃん「セツ」をご紹介します。

セツ( 天野邸 12)

昨日のコリウスの枝を折ってしまったワンちゃん「セツ」です。

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もうおばあちゃんで、目も見えないし耳も聞こえないと言います。
だから枝を折ったのも、遊び回ってぶつかったのではなくて、様子が変わった庭を手探りで確認するうちに、鉢にぶつかって折れてしまったのでしょう。

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このセツさん、とっても穏やかで、日がな一日のんびりと駐車場と庭で過ごしています。呼んでも聞こえないので、周囲で何が起ころうと我れ関せずで、寝転んだり歩き回ったり。

奥様にかわいがられて、何の不安も不満もなく、幸せな老後生活のようです。

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ワンちゃんって、ほんと、人を優しい気持にしてくれます。このセツさん、充分に幸せなはずなのに、時々庭からの脱出を試みるとのこと。目と耳が良くないので出歩くと危険なんですよね。近所の人に発見されて、送り届けられることもあるそうです。
セツさんはきっと、自分が年老いているなんて思っていないんでしょうねえ。目が見えないとか耳が聞こえないとか、それは気のせいだって思っているのかもしれません。気持は若いときのまま。きっとそうなんです。

ぼくたちもそうですよね、気持は10代20代のまま。ところが身体がついてこない。
L.A.モース著の「オールド・ディック」というミステリーの名作があります。年老いた探偵ジェイクに15年ぶりに仕事が舞い込み、若いときの気持のままで事件に立ち向かうというもの。78歳のジェイクは犯人を追跡しながら喘ぎます。「おかしいぞ!何で俺の足はこんなにのろくなってしまったんだ。何でこんなに息切れしてしまうんだ。もしかしたらこれが老いぼれるってことなのか」と。
きっとそういうものです。

セツさん、頑張って脱出してくださいよ(この住宅地はクルマがほとんど通らないから大丈夫でしょう)。楽しいなあそういうの、青春だなあ。

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北原照久さんに教えていただいたサムエル・ウルマンの詩を、セツさんと、これをお読みのすべての探偵ジェイクに贈ります。
青春とは 人生のある時期ではなく 心の持ち方をいう
年を重ねただけで 人は老いはしない
理想を捨てたときに 初めて老いるのだ

セツさん、いつまでも脱出を試みながら元気でいてくださいよ。イギリスでは、赤ちゃんが誕生すると犬を飼うそうです。その赤ちゃんが物心ついたときに、犬との主従関係、自分が犬のリーダーなんだという感覚を身につけさせるためだといいます。自分にはこの犬を世話したり指示を出したりする役目があるんだということを知ることで、自分自身の存在を価値あるものとして認識させるのです。アイデンティティの確立ですね。
そして犬を飼うもうひとつの理由が、犬の死です。
赤ちゃんが成長して、中学生になる頃に、犬は寿命を終えます。
その悲しみと対峙して、受け入れて、そこから死ということ、命ということ、愛情、そして家族ということを学びます。

庭の設計をしていて、そのお宅にワンちゃんがいる場合、犬種、性格、暮らしぶりをお訊きして、その庭がワンちゃんにとってもお気に入りの場所になることをイメージします。
庭が、そのご家族の誰にとって心地いい場所になることが理想なのか、順位をつけるとすると、まず奥様、次が子供、その次が犬、最後にご主人。ケースバイケース、異論反論ございましょうが、長い経験上、この順番がベストなのです。

スズメガとカマキリの卵( 天野邸 13)

今日はテラスの草花をご覧いただきます。

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パシャパシャやってたらスズメガが蜜を吸いにやってきました。

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秋になると飛んでくる、かわいらしい昆虫です。見事なホバーリングで、ストローのように伸びた口で蜜を吸っています。

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こういう出会いも庭の楽しみ。
ふと見上げると、照明器具にカマキリの卵が。

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円海山の裾野にあるこの住宅地には昆虫だけではなく、リスも来るし、ヘビやトカゲや、時々アライグマまで出没します。カマキリの卵を引き出しに入れといたら、ある日突然、部屋中にミニチュアのカマキリが大量に這い出していたという経験、男の子だったらあるんじゃないでしょうか。ぼくはあります。こっぴどく叱られました。怒りまくって、掃除機で子カマキリを吸い取っている母の姿を、ぼくは呆然と見ていた記憶があります。かわいそうとかそういうのじゃなくて「えらいことになっちゃったなあ」という感じだったと思います。

ふるさと新潟ではカマキリの卵の位置が低い年は暖冬、高い年は豪雪と言います。カマキリには冬の雪の量がわかっていて、雪に埋もれない高さに産卵すると考えられているのです。
科学的にどうなのかは別として、そういうことを気に留めて冬をイメージするという、山人の暮しがいいですよね。
ちなみに今年は、卵は高い枝に産みつけられているそうですので、たぶん豪雪です。いつでも実家に雪下ろしに行けるように、そろそろスタットレスに履き替えましょうかねえ。
また、冬がやってきます。

「亡くなった人が庭に遊びにきているんだよ 」と。これは幼い日に、縁側で聞いた言葉です。その日はやたらにトンボや蝶が飛んでいて、幼心に幻想的な風景として記憶に刻み込まれています。

後年(中学2年生)、始めて越後駒ヶ岳に登ったとき、山頂に数百匹の蝶が舞っていました。ぼくはその蝶の大群の中で「亡くなった人たちなんだ。ここは天国かもしれない」と、蝶の羽音を聴きながらしばらくそこで時を過ごしました。

写真を整理していて思いました「このスズメガは、植物学者だったお父様が遊びにきていたのかもしれないなあ」って。
「なかなかいい庭になったねえ」と言ってくれているのかもしれない。そうだったら、うれしいなあ。

子供はみんな神様だ( 天野邸 14)

ジブリの宮崎駿監督は「5歳までの子供はみんな神様だ」と言います。ほんとにそうだなあって思いますね。
犬は人間でいうと5歳児のままだそうです。
子供も犬も、我々には見えない何かを見、我々には聞こえない音を聞きます。神様なんですよねえ。あ、いや、今日の写真にトトロが出てくるもので、そんなことを考えていました。

天野さんちの庭に住む小物たちです。

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愛犬ノアはよく虚空に向かって視線を送ったり唸ったりします。ぼくには何も見えないその視線の先、そこには明らかに誰かが居るのです。ただそれが、ぼくには見えない。
石川さんちのお嬢ちゃん志乃ちゃんは「小さいおじさん」と会話をします。お母さんには見えないそのおじさんと、仲良しになったようです。話変わります。京都のお寺、石庭で有名な竜安寺の方丈庭園は、560年前の流れ者の庭師(山水河原者)がつくりました(諸説ありますが、実際に石を据えたのは庭師です)。
その庭をいまだに「宇宙的である」とか「インスパイアされる」と、観光客が訪れては感激しています。・・・ということは、560年前のその職人さんが持っていたイマジネーションを、現代のぼくたちは越えることができていない、ということです。

イマジネーションは進化していない、どころか退化しているのかもしれない。

どうも、そんな気がするんですね。科学技術は進化しましたが、裸の人間が本来持っている能力は、便利さが増した分、退化した可能性があります。
その本来的な能力の名残りを5歳までの子供たちは持っているのです。だから、大人には見えない、聞こえない世界を感じ取ることができる。小さいおじさんとも仲良しになれるのです。犬もまた同じで、野生の能力で、神の領域の世界を生きている。

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目に見えているこの世界は、実際の世界の十分の一に満たない。

宮崎駿監督は、ナウシカでも、もののけでも、ハウルでも、一貫してその5歳までの子供が持つ「神の領域」が存在しているんだということと、それを消し去ってはいけないというメッセージを、昔はちゃんと神様だった大人たちに送っているんだなあって思います。トトロもマックロクロスケも見えなくなってしまったぼくたちに。

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時々、ほんとに時々なんですけど、5歳までの神様の能力を、むりやり消してしまう大人がいて、とても悲しいです。
例えば、子供の前でひどい夫婦喧嘩をするとか、子供がおびえたり気を使ったりするほど不機嫌な顔で過ごすとか。そこまでひどくなくても、朝から晩までついつい「ダメ!」を連発するような育て方をすると、子供の神様の領域は消えてなくなってしまいます。
気をつけましょうね。ほんとに気をつけましょう ね。大人の責任として、子供はのびのびと、何の不安も持たせないで、愛情たっぷりにしてあげましょう。毎朝、幼稚園のバスを待っているお母さんと子供たちに「おはようございまーす」と挨拶して出勤します。みんな笑顔で、その一群は輝いて見えます。
はしゃぎ回る子供たちと、朝からけっこう気合いが入った身なりで、ときに大笑いしながら立ち話をしているお母さんたち。毎日毎日、その場所は笑顔が絶えないマジックゾーンです。寝不足の日もあるでしょうし、夫婦喧嘩で落ち込んでいる人だっているはずなのに、不思議だなあと。
きっと、子育てという共通の課題を持った人たちだからなんでしょうね。そこにいるおかあさんたち全員が「笑顔」の大切さを知っているのでしょう。それと、朝起きたとたんから、子供たちにその大切な「笑顔」をもらっているから、だから毎朝元気に、笑顔いっぱいでそこに集えるのだと思います。

すべての大人に「笑顔」をプレゼントしてくれる子供たち。子供は神様ですから、「笑顔」は神様からの贈り物なのです。ありがたく、ありがたく、いただきましょう。

ほめて躾ける( 天野邸 15)

ガーデニングエリアの草花をご覧いただきながら、昨日の話をもう少し続けてみようと思います。

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昨日は宮崎駿監督の「5歳までの子供はみんな神様だ」という言葉から、「子供に何の不安もなく、愛情いっぱいな環境を与えましょう」ということを書きました。今日は犬の躾についてです。
犬は成長しても、人間でいうと5歳児のままだそうです。だからでしょう、わが家のノア(ワイヤーダックス)と過ごしていると、その愛らしさはまさに小さい子供と同じです。

子供は5歳までに、親に一生分の恩返しをする。

その言葉通りに、子供に感じる愛おしさ、かわいらしさは、子育ての苦労や、思春期になってからの大変さを差し引いても余りあります。
その感慨を思い出させる子犬育て真っ最中のわが家。妻とともに、張り切っていろんな躾教室を視察に行きました。
何カ所か見学し、お話をうかがって気がついたことですが、ワンちゃんの世界、犬業界が、ちょっとした転換期に来ているようです。それは躾の方針ということでです。

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これまでの主流は「厳しく叱って躾ける」スタイルで、見ていてかわいそうなほど、子犬をたたいたり、足を払って転けさせたり。それが徐々に変わってきて、最近ではイギリススタイルの「ほめて躾ける」に変わってきたといいます。
飼い主としては、当然その「ほめて躾ける」がいいわけで、うちもそういう方針のトレーナーさんにいろいろと指導していただいています。

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このスタイルの変化は、子育ても同じですよね。ぼくはおっかない父親に厳しく(でもないか)躾けられましたけど、昔はみんなそうでした。昭和の父親は、口べたで、威厳があって、ダメなことは絶対にダメ!と。そうそう、寺内貫太郎みたいなイメージ。あとは父の大きな背中を見て「いつかこの背中を越えなければ」みたいに感じながら成長してきました。
ところが最近は一変して、父親は子供たちの長男みたいな存在ですよね。遊びのリーダーで、相談相手で。ぼくもそうです。

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垣根をつくらずに、仲良しで、短所を指摘するよりもとにかく長所を見つけてほめる。ほめてほめて、ほめちぎりながら躾け、育てる。それでいいんですよね。石川亮くんとか浅田麻央ちゃんとか、みんなそうやって育って、才能を開花させているわけですからね。

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犬も子供も「ほめて躾ける」でいきましょう!ノアさんが来てくれたおかげで、いろいろと勉強になるなあ。

日だまりのテラスで( 天野邸 16)

いつものことで夢中で撮影していたら、パッと陽射しが変わりました。雲が切れたんですね。カメラの露出を調整し直そうと一息ついたところへ、奥様がお茶を持ってきて下さいました。

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ありがたくごちそうになろうとベンチに腰掛けたその瞬間、座った態勢からの庭の眺めがとってもいい感じで、「ちょっと2、3枚撮らせていただいてからごちそうになります」と、またカメラを手にしました。

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せっかくのお茶が冷めないうちにと、急いでパシャパシャッと撮ったカットです。

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「日が差し込むと、またいい感じですねえ」というと、奥様は「そうなのよ!私はパラソルにできる葉陰がとっても気に入ってるの」と。撮影していると、ついつい構造物やそこにある点景(ファニチャーや鉢植えや草花)を撮ろうとしてしまいます。これは設計していても同じことが言えて、煮詰まってくると、壁の高さや通路の幅などをどう組み立てるかというカタチのことに意識が集中していきます。これが、実はよくない状態でして、そうなっている自分に気がつくと、パッと作業を中止してブログを始めたり、何か他の仕事をやって思考を平らに戻すようにしています。

どういうことかというと、写真で写すべきは、触ることができるベンチや壁や花ではなくて、「空間」なのです。設計も同じ。庭は花壇やトレリスなどの構築物が庭なのではなくて、構築物と構築物の間にある「空間」が庭なんです。
その空間には何があるかというと、空気、光、風、香り、さらに言うと「感じ」があります。その「感じ」を「気持いい感じ」や「居心地のいい感じ」、「幸せな感じ」にするために、構築物をどう配置・構成するかがぼくの設計です。

できあがった庭で、ベンチに腰掛けて感じた日だまりの心地よさ。奥様が気に入っているというパラソルに映る木陰。「これなんだよなあ」と。

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美味しいお茶とカステラをごちそうになって、ぼくはテラスにしゃがみ込みました。そして空に向かってパシャッと一枚。

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これです!これが、この庭なのです。

石( 天野邸 17)

日だまりのテラスでお茶をいただきながら奥様と話していたら、床面に使った石の話になりました。

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打ち合わせ段階で奥様が入念にイメージした部分です。石にしようかタイルにしようか迷って、実際に施工したお庭を何カ所か観に行ったり、現地でサンプルを並べたりして、これ、トルコ産の方形大理石に決まりました。「雨の日や朝露に濡れると、全然違う表情になって素敵なのよ」とうれしそうに話す奥様の言葉に、では、と、水を撒いてみました。

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いい感じです。

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ガーデニングエリアの乱形の石にも散水してみました。

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これもいい感じです。ブラジル産のピンクとホワイトを混合で使いました。

水を打つととたんにイキイキとする石の不思議。
最近では景石を楽しむ庭は少なくなりましたが、このように敷いたり積んだりする素材として使うことで、庭に趣が出ますね。いいもんです。北原照久さんが講演の旅先で見つけて買ってきてくださった「庭をつくる人」という本、大正から昭和初期の文人、室生犀星の随筆集です。その中に、「石について」というこんな文章があります。

「石について」

わたくしは世に石ほど憂鬱なものはないと思うている。ああいう寂しいものを何故人間は愛で慕うのであるか。

石が寂しい姿と色とを持っているから人間は好きになれるのだが、反対のものであったら誰も石を好きにならないであろう。その底を掻きさぐってみたら石というのは飽かないものであるからである。さびは深く心は静かである。
人間はその成長の途中で石を最初におもちゃにするようであるが、また最後におもちゃにするのも石のようである。

石は絶えず濡れざるべからずというのは、春早いころがその鋭さを余計に感じる時であるからであろう。水の溜まる石、溜まるほどもない微かな中くぼみのある石、そして打ち水でぬれた石は野卑でなまなましく、朝の旭のとどかぬ間の石の面の落ち着きの深さは譬えようもなく奥ゆかしい。或いは夜来の雨まじりでぬれたのが、空明りを慕うているさまは恋のように仄かなものである。

庭の景石、飛び石に心奪われる人の、その人の、その時の気持のありよう。
テレビやパソコンやエアコンが、まだ暮しの中に存在しなかった頃には、人は道ばたの小石と普通に会話ができていたんですよね。
あなたは、ぼくは、石と交信しながら暮らせているでしょうか???

奥様との会話から「石」に引っかかってつらつらと書いていたら、小さいころの、道ばたの石ころを蹴っ飛ばしたくなる衝動を、微かに思い出しました。
こういうこともまた庭が持つ魅力なのです。

木の懐に間借りする( 天野邸 18)

今回の設計で意識していたことが、できるだけ木を残すということでした。普段からもともと植わっている庭木を活かして庭を構成するように心がけていますが、今回は特にその気持が強くありました。
それは、亡くなられたお父様が植物学者で、雑木林のようなこの庭をとても楽しんでいたということをうかがったことと、ご主人もまた「緑が多くて自然を感じながら過ごせる庭がいい」というご意見だったからです。できるだけ木を残しながらも、過ごすのに十分なスペースを確保するために、ご覧のように樹木ギリギリでレンガを積むことに。

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こういうケースの場合、事前の測量での木の位置の計り出しが正確じゃないと、いざ施工を始めたら「木に当たってレンガを積めない」ということも起こりますので、着工時には「はたして設計通りにつくれるだろうか」と、少々緊張します。

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数年前は時々、測量と現地の木の位置がずれているというミスがあって、現地で腕組みしながら次の手を考えるという場面がありましたが、このごろは測量に当たるスタッフも腕を上げてきて、そういうことはめったに起こりません。事前の測量ミスへの不安がなくなったおかげで、ぼくとしては嬉々としてギリギリラインを狙うようになって、その分設計に幅と精度と微妙なニュアンスを込めることができるようになりました。

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造園では、比較的既存の樹木を活かすという考え方がありますが、建築設計は逆で(残念なことです)、はっきりと建物優先です。見積書の最初に「伐採・整地」という項目があって、新築の場合、基本的には敷地内の木はすべて処分するのが通常です。修行時代に、幸運にも師事することができた造園家の田瀬理夫先生から、もともと生えている木の枝一本も落とさずに、木の懐に間借りするように構造物を配置するというやり方(考え方)を教わりました。
ありがたかったなあって、20年以上経って、先生との出会いが自分の大きな財産になっていることを感じています。

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木の懐に間借りするように・・・。
実はこれって、人間もそうあるべきなんだと思うんですけどいかがでしょうか。
自然の懐に間借りするように暮らす

地球に借家住まいしているという感覚の方が、人間は人間らしくいられる気がします。

マジックのタネ明かし( 天野邸 19)

「ここからの眺めが気に入っているの。ここにしゃがんで、奥の方を眺めると、ね、すごくいい感じでしょ」

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奥様に促されてぼくもしゃがんでみました。そしてパシャッと撮影。いいないいな。通路にしゃがんだ態勢からの「お気に入りの風景」を見つけ出して下さった奥様に、ありがたい気持でいっぱいになりました。通路にしゃがんで見る風景ですよ。何にでもときめく心、好奇心、そういうものがない限り、探し出せない、出会うことがない景色なのです。そして、そこまでこの新たな庭を楽しんでくださっていることに、心から感謝です。

それにしても、テラスの外周の園路を、「お気に入りの風景」として感じる奥様の感覚。素敵です。

庭を仕立て直す前は、この場所は奥様の悩みの種でした。ここでの雑草取りがエンドレスで、すぐに1〜2時間を費やしてしまって、そのわりにきれいになった感じがしないということでした。
その「こまった雑木林」が、一転して「お気に入りの場所」になった。考えたら不思議なことですよね。マジックです。

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悩み事を解決するというのは、マイナス要素を無くしてプラスマイナスゼロの状態にするということです。ぼくとしてはそこに留まらず、マイナスを一気にプラスに変えることができないだろうかということを、常に考えて設計しているのですが、そのマジックを成功させるために欠かせないタネが、その庭で過ごす人の心の中の「プラス域」の存在です。「プラス域」とは幸福感。楽しさやトキメキや感動です。お客様にそれが無い限り、ぼくのマジックは全く効き目がないのです。大成功!奥様の「プラス域」はぼくの予想を超える広がりを持っていました。

波動のはなし 1( 天野邸 20)

天野さんの奥様は、オーラや先祖の因縁といった、いわゆるスピリチアルな世界にとても興味を持っている方です。そして奥様は言います「いわふちさんはオーラが見えるでしょ」と。
ぼくはその言葉を否定しませんでした。井原さんや美輪さんのようにオーラを感じてそれを語ることはできませんけど、それに近いことはいつも感じているからです。ただそれはぼくにとってごく普通のことで、きっと誰でもそういうのを感じて暮らしているんだろうなあって思っていたので、取り立ててその能力を語ることをしなかっただけなのです。
改めてそう言われると、ウ〜ン、確かに。ぼくにはオーラが見えています。というか、見えることがあります。自分の状態によってなんですよねそれって。というわけで、天野さんちの夜景をご覧いただきながら、ちょっとスピリチアルな話を。

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オーラの話の他に、奥様と「波動」についても盛り上がりました。
オーラは、自分自身がこれまで意識してこなかったために「そう言われればそうです」くらいの感覚ですけど、「波動」のことは常日頃考え感じていることなので、それについて書きます。これはぼく自身のまとめというか確認でもありますので、もしそっちのことに興味がある方はお付き合いください。

まずは波動の定義です。
すべての物質は原始レベルで揺れていると言います。人間の細胞もそうで、つまり、ぼくもあなたも振動の集合体だということです。

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・・・と言いつつ、入り口としてはこの話からなんですが、そこから入ってその先を科学的に解説できる知識を持ち合わせていないので、一足飛びにぼくが考える「波動」を定義することにします。「波動」とは「感じ」です。「あの人はいい感じだね」とか「この店は感じがいいね」とか、そういうときに使う「感じ」が波動です。あるいは「気」でもいい。「今日は気分がいい」、「あの人とは気が合う」の「気」です。

この「波動」のことを、ぼくはほぼ毎日、もう何年も(20年以上)意識して暮らしています。
その始まりは雑誌「ブルータス」でやっていた「波動特集」でした。身の回りのものを波動の高い低いで分類した表があって、高波動のモノにかこまれて暮らすことで、自らの波動も上がって、充実した日々が送れるというような内容でした。
例えば山の湧き水は波動が高くて水道水は低い。旬の路地野菜は波動が高くて温室ものは低い。青山通りは波動が高くて大久保通りは低い。何となくわかりますよね。単にその野菜が新鮮かどうかとか、その町並みが整っているかどうかではない何かがあって、その何かを解説するときに波動が高いとか低いという言い方をするのです。

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ぼくがこの「波動」のことを意識し続けているのには理由があります。それは、庭の設計をするときに、自分の波動の高低によって仕事の進み具合と出来映えが大きく違ってくるということに気がついているからです。
波動が高い状態では庭を描く前からすでに頭の中で完成していることがあるほど、庭へのイマジネーションが冴えていますが、波動が低い状態ですと、いくら唸って考えても線が引けなくなってしまいます。
さくさく描けて、描きつつ感動するような状態がベスト。何らかの答えを導き出すために考えるんでも、集中力を持続させるうちに、ドキドキしたりクラクラしてくることがありますが、それがいい状態です。ガッと、真正面からその庭に向き合っている時間の心地よさは、この仕事の至福の時なのです。

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波動が高いといい設計ができて、低いと仕事にならない。ほぼ毎日設計作業をしているので、毎日波動を意識し、朝起き抜けから、その日の仕事がいい具合に進むようにと自分の波動を高めるためのあれこれが始まります。「波動」のはなし、明日に続きます。

波動のはなし 2( 天野邸 21)

徐々に深くなっていく夜の庭をご覧いただきながら、昨日の続きです。

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朝起き抜けから「波動」を整え高めていくという毎日。20年続いているこの習慣を無くしたら、ぼくはきっとこの仕事で食べていくことはできなくなってしまいます。おそらくは、お客様に喜んでもらえる設計、自分自身が納得できる設計ができなくなるからです。庭を設計するということはそういうもので、設計の知識がいくらあっても、いくら力んでもだめ。そういうものです。

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では、波動を高めるために何を心がけているのかを書きます。

  • よく眠ること
  • 自然に目覚めること
  • 最初に出会った人に笑顔で挨拶すること
  • 出勤途中に道路のゴミを拾うこと
  • 出社したらまず掃除をすること
  • 今日が素晴らしい日になるというシュミレーションをイメージすること
  • 思いがけない素敵な出会いがあるにちがいないと思うこと
  • よし!今日も絶好調!と声に出すこと

 

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毎日「波動」を高めることを意識しながら過ごしていて、いつの間にか習慣化した事柄です。ぼく自身けっこうデリケート過ぎるのかもしれませんが、このうちどれが欠けても、何となく調子が崩れてしまいます。だからこれらのことは、できる限り毎朝の習慣としています。

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朝なんです。とにかく朝が勝負。朝に良質な燃料を満タンに補給して、それを夜までに使い果たすという感じです。きっとそういう体質なんですよね。

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こうして毎朝の習慣によって整え、高まった波動を維持しながら仕事をするために、もうひとつ、とても大事なことがあります。
それはまた明日。

波動のはなし 3( 天野邸 22)

朝が勝負!毎朝の習慣で整え高めた波動を夜まで維持する、いち日でそのパワーを使い切ること。そんな毎日を送りながら、ひとつ気をつけていることがあります。それは、波動が下がる場所や人に近づかないことです。逆に言うと、波動が高い場所や人に近づいて過ごすこと、これが大事です。
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いろんな人が本に書いている「波動の法則」というのがあります。「波動は相手に同調を与える」というものです。
つまり、高い波動の中に身を置くと自分の波動も高くなり、低い波動の中にいると周囲に同調して波動は下がってゆくということ。「朱に交われば赤くなる」と言いますよね。
危険を感じる場所や、何となく嫌な感じがする場所、空気が悪いとか騒音がひどいとか、あまり風体の良くない人が集まっている場所などを意識的に避けて暮らすことが大事。人でいうと、愚痴ばかり言っている人や、何でも否定から入る人、文句を言うために生きているようなタイプの人に出会ったら、極力かかわらないことです。

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そうは言っても一日中たくさんの人と出会いますから、そんなことはむり、それでは仕事にならないという人もいるでしょう。大丈夫です。波動にはもいうひとつの法則があるのです。

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そのもうひとつの法則が「同じ波動は引き合う」というもの。これも忘れてはいけないことです。
同じ波動が引き合うということは、波動の低い人に会うのは自分の波動が低くなっているからだということ。自分が高い波動のときには、同じく高い波動の人だけが目の前に現れます。これほんとですよ。つまり、出会う人は自分を映す鏡だということです。

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それと、「波動」は揺れですから、揺れながらいくらでも変化します。その波形は一瞬で高くなったり低くなったり。
会社で苦手な上司、きらいな同僚もいるでしょう。ところが自分の波動を上げることができると、その嫌いだった人が、まるで別人のようにあなたの好みの人物になったりします。あなたの高い波動が、その相手に同調を与えるのです。

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すてきでしょ、そんなこことができたら。でも、できるんですよ、誰にでも。ぼくも夢のようなその技を習得するための修行のように、毎日波動を意識しながら暮らしているともいます。

波動のはなし、明日はまとめです。

 

波動のはなし 4( 天野邸 23)

ぼくが「波動」を意識するようになったのは、前に書いたように、それが庭の設計に大きく影響するからです。高い波動を維持しないと、お客様の日常にインスピレーションや幸福感をもたらす庭を描くことはできないのです。もしこの仕事をしていなかったら、きっと波動についてここまで考えることもなかったでしょう。

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波動とは「感じ」とか「気」のことです。いい感じで、いい気分で暮らすために、「波動」という概念を持って暮らしてみるのも楽しいんじゃないかなって思います。

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いろんなことの判断基準を「波動が上がるか下がるか」でやってみるのも面白いと思います。「天気が悪くて波動が下がるから、今日は仕事にいかないでビールを飲む」とか(言ってみたい)。

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今日で天野さんちの庭のご紹介はおしまい。
「いわふちさんはオーラが見えるでしょ」という奥様の言葉、何だかうれしいひと言でした。

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庭ができ上がってから奥様にうかがったことなんですが、この工事をするかどうかを、お知り合いの霊感が強い「オーラが見える人」に訊いたそうです。するとその方は即「やったほうがいい」って。その言葉で急いでご依頼いただいたとのこと。

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これが縁というものなんでしょうねえ。ぼくは初めて奥様に会ったその瞬間に、ピタッと来る何かを感じました。波動が引き合ったご縁だったのだと思っています。

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オーラ、縁、波動・・・。感じる人には感じる、見える人には見える、もうひとつの世界。学校では教えてくれないことですけど、とても大切なことのような気がします。

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またひとつ、高い波動の庭ができ上がりました。楽しい仕事でした。感謝です。

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天野さん、ありがとうございました。
この庭は、時間とともにどんどん輝きを増していくことでしょう。一年後、五年後、十年後の、庭とご一家の眩く美しいオーラが楽しみです。
ガーデンパーティーのときは誘って下さいね。そうそう、後藤さんも楽しみにしているとのことでした。

 

 

 

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